2021年6月16日水曜日

コロナ渦に思う、イエスと食事

団欒は信頼を生む

どの文化でも共に食事をすること(共食)が大事にされている。ある意味、会食の空間を共有することが、言葉より大事なのだ。最近、G7があったが、国のリーダー同士が信頼を築くのに必ず会食する。団欒は信頼を生む。それは「愛」の表現でもある。パリサイ人は「罪びと」とは一緒に食べなかった。彼らにとって「罪びと」達は、敬遠する対象で、愛する対象ではなかったからだ。しかし、イエス様は喜んで罪人たちと会食した。

 

イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。 (マタイ9:10−11)

 

人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。  (マタイ11:19)

 

と、会食は伝道において、また弟子訓練において、イエス様のミニストリーの大きい部分を占めていた。一緒に食事することができないコロナ渦はクリスチャン生活にも実は多大な負の影響を与えていると思われる。例えば、クリスチャンリトリート。その目的は「共に食事し、共にスポーツし、共にお風呂に入り、共に笑い・・・」と時間と空間を共有して「密」に交わることにある。今は、無理してリトリートをやったとしても、食事は個食、黙食、共に声を出して賛美できない。交わりもマスクで表情が見られない・・と何とも虚しい。

 

 

赦しの共食

復活後のイエスと弟子達がガリラヤ湖畔で朝食をとった。ペテロが裏切って初めての会食。ペテロはあれ以来、どんな気持ちだっただろうか。すでに希望を捨て、漁師に戻っていた。しかし、イエスは再び、ペテロの前に現れ、以前のように親しく接し、共に朝食を取られた。これは「赦し」と「和解」の確認であり、「愛」と「絆」の再確認だった。「共食」は関係を確認する大事な手段なのだ。

 

ちなみに、新約聖書では、断食は命じられてない。イエスご自身は、罪びとが周りを囲む食事が好きだったようだ。やがて私たちも天国での大祝会に参加する。(ヘブル12:22 新改訳第3版)。イエスのミニストリーの最初がカナの婚礼での奇跡だった。イエスがもたらすものは禁欲律法ではなく、「祝宴」であることの象徴だ。カナの「祝宴」始まり、天での「大祝宴」で終わる。イエス様と食事(共食)は切っても切れない関係があるのだ。

 

 

イエスを味わう

イエスは、「わたしは命のパンです。」(ヨハネ6:35)と言われた。私たちにとっては「ご飯」かも知れない。つまり毎日、肉体を維持するために食べているもの。イエスは「新しい命」に生きるために必要な「糧」なのだ。こんなに解りやすい例えはないだろう。食することと霊的真理は深い関係にある。(ヨハネ6:54−58)あまりに例話がビビッドなので、聞くのに耐えないと言った弟子たちがいたくらいだ。(ヨハネ6:60)

 

また、聖餐式で受ける盃とパンはイエスの血と裂かれた肉を表す。(Iコリント10:16−17、11:23−26)これまた霊的真理と食物がビビッドな形で関係づけ、描写されている。今でも聖餐に与る時、口にパンを入れもぐもぐさせながら肉感的に十字架を体感する。(11:26)イエスはそうせよと命じたのだ。ギリシアの形而上学とは随分違う。「からだの復活」もそうだが、新旧約聖書は観念論というよりは、tangible(触知可能)志向なのだ。

 

「天の御国は飲み食いのことではなく・・・」(ローマ14:17)とパウロは言っているがそれは「奥義としての御国」=「エクレシア」の霊的本質を伝えるためであり、実際、初代教会では食事を共にてのフェローシップを大事にしていた。むしろ行き過ぎていたのでパウロは修正せねばならなかった。(Iコリント11:20−22、33−34)

 

実際イエスご自身は「天の御国で飲み食いするのです。」と言っている(ルカ22:30)幽霊のような「霊的」世界に行くのではなく、「飲み食い」できる復活の「からだ」を頂くということだ。そして「飲み食い」の重要性はそこにもあるのだ。体があるということは「タッチ」や「ハグ」という接触があるということでもある。

 

 

コロナ渦の障害

人間らしさをキープする3つの自由があるという。 1)動く自由 2)集まる自由 3)対話する自由。やはり、人間は「群れ」、「一緒に食べ」、「語り合う」ところに「生きている意味」を感じる。言葉で伝わるのは7%と言われる。幼稚園の子どもたちが情緒不安定になるという。マスクで先生の表情が見えないから。これはボディブローのように後で効いてくるだろう。会社員もオンライン会議ばかりでは情緒不安定になる。オンラインだとコミュニケーションの大部分を占めるボディランゲージが制限される。さらに触れ合い、匂いも制限される。確かに「言葉」で語り合って機能的にはコミュニケーションはできるのだが、実際会うのとは「質」が違うのだ。





 イエスは病人に「触れて」癒された。「触れる」ことで愛とケアを伝えた。タッチも、握手も、ハグも無い世界。やはりこれが長く続くと見えないところで障害が出てくるのではないか?

 

TMCエクレシアもzoomに移って、一応「機能的」には通常営業なのだが、何か言葉にできない障害が出てきている気がする。初めは、Stay Homeもマイペースで生活できて「いいな」と思っていたところ、1年も経つと、何か倦怠感や気分の落ち込みを経験するようになっている。やっぱり不自然だ。人々のマスク姿にもうんざりしてきた。

 

愛は「密」。だから「密」を避けることは「反愛」だろう。タッチする意義。顔を合わせて会食する意義がコロナで奪われている。ある牧師が今の状況を嘆き「教会は食べる集団なのに・・」と言っていた。うなずける。「共食」ができない影響は大きい。

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

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