2022年4月14日木曜日

「ハッピー・イースター」で本当にいいの?

 

ハッピー・イースター?

クリスマスの違和感については、すでに以前の記事で書きました。(2021年12月16日掲載)今回はイースターについてです。

 

レハイムキリスト教会主任牧師の行澤一人氏は、「舟の右側」(2022年4月号)の記事で以下のように指摘しています。

 

「『イースター』という言葉の由来は、春の訪れを祝う北欧の『春分祭』に結び付けられた女神「エオストレ」(繁殖と生殖を司るとされる)にあると考えられています。これは異教的な春分祭の要素が、キリスト教の復活祭に取り込まれていったことを示しています。」

 

また、東京基督教大学教授の櫻井圀郎(さくらい くにお)氏が「異教世界のキリスト教」という本の中で、このように書いています。

 

「イースターは英語でも、意味の分かる言葉ではありません。・・・・イースター(オストラ)」とは、アングロサクソンの春の女神の名前であり、その女神の祭りの名称でもあったからです。日本的に言えば「天照大御神」というのと同じようなことなのですから、驚きです。したがって、「ハッピー・イースター」と言えば、「天照大御神、万歳!」と叫ぶに等しいわけです。(P.146

 

「イースター」とは女神の名前なのです! イエス様は「女神」の名前で呼ばれて嬉しいでしょうかね?これを知ってしまうと無邪気に「ハッピー・イースター!」とは言えなくなりますね。ちなみに、米国では「イースターバニー」が登場しますが、これは女神イースターの化身であり、崇拝の対象とされていた偶像だったのです!(「異教世界のキリスト教」P.148)

 

諸教会がイースターで盛り上がっている時に、水を差すようなことは言いたくないのですが、やはり、クリスチャンとしては、この事実は知っておかなければならないと思います。ハッピー・ジーザス!の方がいいですけどね。

 

無批判に受け入れてきた日本の教会

そもそもの問題として、欧米のものをほとんど無批判的に「キリスト教的」として受容し、保持、推奨してきたところに問題があると櫻井氏は指摘します。

 

特に敗戦後、宣教師の言う事は何でも是として受容するという態度をとってきた、いわば、「宣教師の偶像化」があったというのです。(同書p.138-139)そして、それが今日まで続いて、「外国の宗教」的な教会形成がなされてきたというのです。それに反発する極端に日本的であろうとした「儒教的キリスト教」、「武士道的キリスト教」なども起こってきたようです。しかし、基本的には日本のキリスト教は欧米色の強いものになりました。そんな中で、「クリスマス」と「イースター」が無批判的に受け入れられてきたというのです。

 

実は、「クリスマス」は西欧では強い反対論が出たり、何百年も禁止措置がとられたことがあったのです。(同書p.139)米国でも教会の強い反対によりクリスマスが公認されていなかったことが指摘されています。(同書p.141

 

「日本でも教会よりも宣伝広告、商業の世界で、いち早く受け入れられ、今日に至っています。したがって、世俗で行われているクリスマスが『本物』で、教会のクリスマスは、『世俗のものまね』ということになります。皮肉な事実です。」(同書P.142

 

この倒錯現象は、私が以前ブログで指摘した通りです。もう一度復習するとクリスマスの起源はミトラス教の「冬至の祭り」であり、ミトラス教の太陽神「ミトラス」の復活の祭りに重なります。自称クリスチャン、ミトラス教徒であったローマ皇帝コンスタンティンが「ミトラス教」と「キリスト教」を習合させようとイエスの生まれた日(実際は不明)をミトラス教の太陽神ミトラスの復活の祭りに当たる12月25日に定めたものです。(同書P.143)聖書的根拠は何もありません。従って、12月25日にクリスマスをしなければならない理由は何もありません。

事実、イギリスでは、ピューリタンたちがクリスマスに猛反対し、16世紀にはクリスマスは完全に禁止されるに至ったのです。19世紀に世俗の世界で復活します。ドイツから輸入された、クリスマスツリーも初代教会にはなかったものです。

 

「『クリスマスツリー』は、冬至や正月に、太陽を崇め、豊穣を祈願し、悪霊を祓うなどの意味で、生命の象徴である常緑樹を飾る異教の習慣をキリスト教のクリスマスに転用したものでした。」(同書P.144

 

これを読んでどうするかは各自のご判断ですが、一応、歴史的事実は知っておくべきでしょう。

 

救済論の中の「復活」の意味

もちろん、復活を祝うことは大事です。いや復活は強調しても、しすぎることがないほど重要です。しかし、なぜか、「復活祭」は「クリスマス」ほどの熱意を持って祝われてはいません。「舟の右側」2022年4月号で、中原キリスト教会の山口希生牧師が次のように述べています。

 

「もちろん、ペテロやパウロがイエスの十字架での死の意味を軽んじていたなどということでは毛頭ありません。・・・しかし、彼らがユダヤ人や異邦人に対して『福音』を宣べ伝える時に強調したのは、十字架よりも、むしろ、復活だったという事実も忘れるべきではありません。ひるがえって、今日の宣教の現場を考えると『福音』として語られるのは、復活より十字架であることの方が圧倒的に多いのではないでしょうか。」(P.7

 

パウロは「福音の3要素」の中に「復活」を入れています。(Iコリント15:4)また、信仰告白の要素として入れています。



主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。(ローマ4:25)

 

 

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。

                       (ローマ10:9)

 

また、パウロは十字架の贖いの死を有効にする証拠としての「復活」を述べています。

 

聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。(ローマ1:4)   

 

つまり、神の子(罪なき子羊)であることが「復活」により証明されなければ、十字架の死は我らの罪の赦しを有効にできないからです。

 

また「復活」は究極の希望であり、究極の勝利宣言です。

 

この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。」

                 (Iコリント15:53−54)

 

初穂としてのキリストの復活は、私たちの死への完全勝利を保証します。ひいては全被造物の回復を実現するのです。

 

被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。  被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。(ローマ8:19−20)

 

イエスは「もう一人の助け主」である聖霊が来られることを約束されました。(ヨハネ14:16−18)聖霊が降臨したので、「教会」が始まり、世界宣教が始まったのです。(使徒1:8)しかし、聖霊の降臨は、イエスの昇天がなければあり得ません。(ヨハネ16:7)イエスの昇天は「復活」がなければあり得ません。従って「復活」は救済論、また宣教論においても要なのです。パウロが言うように、キリストが復活しなければ、私たちの信仰も宣教も実質の無いものとなり、空しいものとなるのです。(Iコリント15:14)

 

イースターやペンテコステはやらなくとも、クリスマス行事だけは欠かせないと思っている教会が多くないでしょうか? いや、大いにイエス・キリストの「復活」を祝いましょう!

 

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参考文献

「異教世界のキリスト教」 櫻井圀郎 いのちのことば社

 

「舟の右側」2022年4月号 特集「復活をのべ伝える」地引網出版 

 

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執筆者:栗原一芳

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