2022年7月7日木曜日

3種類の人間

 

「赦された罪人」は聖書的か?(3)

 3種類の人間

クリスチャン生活を理解する上で、とっても大切なことがあります。それがこの「3種類の人間」を理解することです。

 

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。  

                      (Iコリント2:14)

 

兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの として歩んでいることにならないでしょうか  Iコリント3:1−3)

 

ここに3種類の人間が出てきます。

1.      生まれながらの人間(あるいは、ただの人)

2.      御霊に属する人

3.      肉に属する人=キリストにある幼子

 

「生まれながらの人間」は「神の御霊に属することを受け入れない」とあるので、未信者のことです。御霊によらなければ誰も「イエスを主」と告白することはできません。(Iコリント12:3)聖書を教養として読んでいても、肝心な霊的な部分が理解できないのです。御霊のことは御霊によってわきまえるからです。(Iコリント2:14)よって「生まれ変わり」が必要です。(ヨハネ3:3)

 

実はクリスチャンには2種類あります。1つは、イエスを主と告白して御霊に導かれて歩んでいる人、あるいは聖霊に満たされて歩んでいる人(エペソ5:18)。キリストが心の中心におられ、常に主を崇め、感謝し、賛美しており、他のクリスチャンと共に霊的なことを語り合うのを楽しみにしています。(エペソ5:19)聖霊に満たされた「聖徒」としての歩みは可能なのです。

 

肉的なクリスチャン

ところがもう1つのカテゴリーがあります。いわゆる「肉的」なクリスチャンです。イエスを主と告白しています。ですから救われています。しかし、「自我」が心の中心にあり、キリストは心の片隅に追いやられています。主を信頼し、お任せするよりも、人生の諸問題を自分の力だけで解決しようとするので混乱や敗北を体験するのです。自分が前に出るので、プライドや劣等感があり、他人との比較や争いや分派を起こしがちです。このような人が教会のリーダー的立場にいると大きな問題です。(IIIヨハネ9−10)



キャンパスクルセード・フォー・クライストの創設者であり総裁であったビル・ブライト氏はこの問題の解決を提示するために「御霊の満たし〜豊かな実りあるクリスチャン生活のために〜」という小冊子を出版しました。今でも世界中で「4つの法則」と共に用いられています。その中で、「肉に属する人」の特徴をこのように説明しています。

 

「肉に属する状態とは『生まれながらの性質の影響や特徴に支配されている状態』です。肉に属するクリスチャンは、自分の力だけで、神の願う人になろうとしています。」

 

肉=生まれながらの性質=古い人の性質

 

「肉」は「御霊」に逆らうので、御霊の願うことはできないのです。(ガラテヤ5:17)それを頑張りでやると「挫折」「敗北」を味わうのです。神を信頼しきれず、自分がしゃしゃり出るのです。また神の約束より、自分の気分や感情に振り回されます。自分が心の王座にいるので、それに振り回されるのです。

 

「肉の人」は「生まれながらの人」のようなので、つまりノンクリスチャンと外面上は同じような歩みをしていることになります。本来、クリスチャンは「罪人」である必要はないのですが、「罪人」と同じ歩みをしてしまっています。実は残念ながら多くのクリスチャンはこの状態に止まっています。「天国に行ければいいや」だけではあまりにもったいないのです。この地上で豊かな実を結ぶ生活は可能だし、それを期待されています。(ヨハネ15:16)

 

危険な兆候

手足のしびれが出ると脳梗塞の前兆だそうです。霊的にも大病への前兆があります。

 

  霊的な事柄への無関心

  不信仰や不従順の正当化

  十字架の恵みを覚えず、自分の基準で人を裁く態度

  神と人々への愛を失う

  御言葉を自分に適用しようとしない

  肉の願いに支配される。(性的不品行、嫉妬、憎しみ、利己心、破壊的な怒りなど)

 

これらは霊的病気の症状です。あなたは死んではいません。救いを失ってはいません。しかし、あるべき健康な姿ではありません。すぐに医者の元に行き、処方箋をいただくべきです。サタンはクリスチャンがこのような状態になるのを大喜びしています。クリスチャンが霊的なことに関心を無くし、熱心に祈らず、伝道せず、御言葉を学ばなければ、サタンや悪霊は自由に活動できるからです。サタンが手招きをしているのを見破りましょう。

 

このような中途半端な状態は結局、自分を苦しめます。二股状態は苦しいのです。キリストにある自由をenjoyできません。常に罪責感や敗北感に悩まされます。人とぶつかります。人を赦せません。自分が不幸です。所詮「赦された罪人」なんだから仕方ない。死ぬまでこんな生活だろう? と自分を卑下して慰めないでください。実は、この葛藤がある自体、あなたが救われ、聖霊を宿している証拠です。(ガラテヤ5:17)自分の古い性質(肉)と新しい性質(聖霊)が葛藤しているからです。そして、そんなあなたに、神はローマ書8章にある勝利の道を用意してくださっているのです。

 

鍵は「聖霊」です。神はクリスチャン生活を送れるよう、その力の源(リソース)も下さっています。(使徒1:8)

 

信仰によって「聖霊」に満たされる

解決は「聖霊に満たされ」(エペソ5:18)、「御霊によって歩む」(ガラテヤ5:16)ことです。聖霊に満たされるとはキリストに支配されるということです。心のコントロールセンターに自分ではなく、キリストに座っていただくのです。心の中心におられるキリストを崇める生き方です。

 

「聖霊に満たされる」ことは神の命令です。(エペソ5:18)「命令」とはやっても、やらなくてもいい事ではありません。そうすべきなのです。それでは、神は、できないことを命令されたのでしょうか?いえ、聖霊に満たされることは可能なのです。神が備えてくださったのです。神の命令であるとは、神の御心だということです。そして、神の御心を願えば、神はその祈りに答えてくださると約束してくださっているのです。

 

何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。 Iヨハネ5:14)

 

努力や修行でこの「霊的高み」に到達するのではありません。神の約束に基づいて、「信仰」によって受け取るのです。信仰によって「救い」を受け取るのと同じです。ある一部の霊的高尚なクリスチャンだけが受ける「特権」ではなく、全てのクリスチャンが歩むべき「基準」なのです。ですから、信仰持って間もなくの人も「聖霊に満たされる」ことは可能です。神はそれを望んでおられます。もう一度言います。新生したクリスチャンが「肉に属している」必要は、もはや無いのです!「罪びと」らしく歩む必要はないのです!それはあるべき姿では無いのです。人にはできないが、神にはできるのです。今、祈って求めましょう。

 

さて、一度、満たされて終わりではなく、大事なことは、聖霊によって歩み続ける事です。どのようにその状態をキープできるのでしょうか? クリスチャンは「霊的呼吸」をすることで安定したクリスチャン生活を送ることができます。それについては次回お分かちします。

 

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おすすめ小冊子

「御霊の満たし〜豊かな実りあるクリスチャン生活のために〜」

                    ビル・ブライト著

版権所有:日本キャンパスクルセード・フォー・クライスト

 

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執筆者:栗原一芳

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