2011年9月17日土曜日

キリスト教は排他的?


「キリストだけというキリスト教は排他的なのではないですか?」

古今東西、面白い恋愛映画やドラマは三角関係の話なのだ。その根底には「あなたはわたしのもの、わたしはあなたのもの」という男女1対1のExclusive(排他的)でなければ本物でないという考えが有るのだ。だから三角関係になると嫉妬や裏切りで苦しみが生まれる。(それでドラマとしては面白くなるのだが)誰でもいいのではない。

若い女性に聞いてほしい。結婚相手は誰でもいいですかと?誰でもいいはずが無い。自分が人生をコミットするのに誰でもいいはずは無いのだ。自分が信頼できる人。自分のすべてを与えられる人だから、「この人」となるのだ。自分のすべてを与える信仰も同じだ。どの神でもいいのではない。やたらめったらに見知らぬ他人誰にでも電話して悩みを打ち分ける人はいない。どの神にでも「祈ればいい」とはいかない。信頼できる神にしか話せないのだ。クリスチャンは「イエスの御名によって」祈る。

ついでにポストモダンの相対主義について話そう。絶対を失った現代人は過去の伝統も「脱構築」し、中心をずらして解釈する。太い幹はもはや無い、細胞のようにフラットに増殖するもののみ。そうするとすべては並列化され、相対化される。世界の文化しかり、世界の宗教しかりである。しかし、この考えを進めると自分の言っている事も脱構築され、テキストをどのようにでも読み替え可能となってしまい、自分の考えを生活に他人に伝えられなくなる。ポストモダンのメッセージでさえ、脱構築されてしまう。

「キリスト教は、あなたにはいいけど、私に押し付けないで。各自、いいと思ったものを選択すればいいんじゃない」そうは言ってもやはり、自殺クラブは勧められない。何でもいいわけではない。そして、寛容が売り物の相対主義の人は、意外と絶対主義の人同様、排他的で相対主義でないものは許さないのだ。

「私はクリスチャンでイエスだけを神として信じてます。」と言うと、「そういうのは不寛容なんじゃない?」と言って許さない。相対主義という1つの信念、世界観になっており、それ以外の世界観を許さなくなってしまう罠にはまっていることになる。


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