2013年2月25日月曜日

救命ボード神学VS箱船神学



 「わが故郷、天にあらず」原題はHeaven is not My home. 著者はポール・マーシャル。いのちのことば社から翻訳本が出ている。副題が「この世で創造的に生きる」冒頭、ダラス・ウィラードの引用がある。「神というお方を、世界の現実として心からとらえることができなければならない。教会が、死後の人生よりも今の人生に関わるものとして福音を理解し、またその理解を深めなければ、両方の人生に支障をきたすことになる。教会の外にいる人たちには、キリスト教という宗教は現実の生活とは何の関係もないものと考えるだろう。教会内部にいる人たちは、教会での奉仕以外の生活をまるで神のいない世界のように感じるだろう。ここには、よく私達が議論する聖俗の分離ということよりも深い問題がある。ここで真に問われているのは、イエス・キリストの福音をどのように理解するかだ。キリストは自然界の真ただ中に霊的な世界をもたらし、そして、今ここで永遠の命に生きるようにと、私達一人一人を招いていてくださっているのだ。」

先日、日常の会話を用いて福音を伝える事を試みるセミナーに出た。会社や学校でノンクリスチャンが話している浅い会話を軽蔑してはいけない。その会話から福音を語ることを考えるべきだと学んだ。聖書の世界観を先ず頭に入れる。それは4つのチャプターからなる。(以前「御国のストーリー」で取り上げた)1。創造、2。堕落 3。購い 4。回復。多くのヒーロー映画はこのプロットに従っている。初めは平和な「あるべき世界」があった。そこに悪者が入り込み、悪をはびこらせる。そして、ヒーローが現れ悪者を退治する。やがて平和な世界が取り戻される。つまり、バットマンもウルトラマンも聖書の世界観に沿っているのだ。クリスチャンが社会で起っている出来事にノンクリスチャン同様に関心をもって、話題にし、一緒に話す事で福音のきっかけができる。誰もが「あるべき世界」を無意識的に描いている。同時に今、目の前の社会がそうでないことを知っている。何かが歪んでいることを体験的に知っているのだ。クリスチャンはそれが罪(神との関係、人との関係の歪み)と聖書から教えられている。

まず、ここで非常に大事なのは終末論である。「世界は人間のあらゆる営みとともに滅ぼされる」という立場に立てば、クリスチャンが「この世」のことに関わる事、すなわち仕事、教会以外の生活や社会的責任がないがしろにされてしまう。「どんなに慈善事業しようとも、この世界はどうせ滅ぼされる。どっちみち神の一方的な業による新天新地が来る」ということなら現在、目の前の慈善事業に力が入らなくなるだろう。会社の仕事に力が入らなくなるだろう。そして、とにかくそんなことより魂の救い、社会的責任より伝道さえしていれば良いという事になる。ここでマーシャルは「神が魂の救いにのみ関心があったら、どうしてノアの箱船に人間だけでなく、動物も入れたのか?」と問う。

「この考え方は(救命ボート神学)と呼べるだろう。被造世界はまるでタイタニック号のようで、罪という氷山と衝突して沈みかけているので、救命ボードに乗る以外は何もできないというものだ。船はどんどん沈んでいる。神は船自体をあきらめ、今は人間が生き残る事だけを望んでおられる。神の被造世界を救おうとするのは、沈みかけている船のデッキチェアーを整頓するようなもので、意味がない。私達の唯一の努めは救命ボートに入り、そのボートを浮かせ、溺れかけている者たちをつかんで水から救い出し、無事天国に着くまでボードを漕ぎ続けることなのだと。しかし、真のキリスト教の考え方は(救命ボード神学)ではなくて(箱船神学)だ。ノアの箱船は、人間だけでなく他の被造物も救った。箱船は逃げようとしてのではなく、地上に戻り再出発した。洪水の水が退くと、船に乗っていたすべての人間と、その他のすべての被造物は地上を回復するためもう一度地上に戻って行ったのだ。」さらに他の箇所でこう述べている。

「死後は天国に行くのだから地球のことはどうでもいいとう考えも非聖書的だ。聖書は新天新地があることを教えている。私達の最終目標は、地上だ。購われ、変えられた新しい地上なのだ。天と再び1つとなっても、やはり地上なのだ。・・・もし人間であることが取るに足らない、つかの間の出来事ならば、(今)という時に真剣に取り組む必要はなくなる。・・・私達人間は、神のかたちに、しかも肉体を持つものとして造られ、地上で生きるために創造された。」

だから、クリスチャンはこの時代の人々と共にこの時代の課題を一緒に背負ってこの地上を歩むべきなのである。世にあって世のものでない。アイデンティティは天にあっても、体があるのはこの地上なのだ。ここで生きる事で、キリストの命が溢れてゆく。癒しと回復が行われてゆく。この地上に神の国がやってくる。神の働く現場はこの地上なのだ。私達の信仰生活の現場は日々の実生活なのだ。神がそこに居ることで「闇は光に打ち勝たなかった」が現実のものとなる。「地を治めよ」とう被造物管理権は生きている。神はその施行を人間に期待している。その責任を放棄してはいけないのだ。

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