2015年1月13日火曜日

日本人の他界思想




年末に神田明神を訪れてみると、期日前初詣の人々で結構にぎわっていた。神前で頭を垂れて「神さま」に祈っている参拝客。神道には偶像がない。神は霊とうい認識だろう。少なくも「神さま」に祈る人がいることに変な励ましを受けた。というのも統計では死後の世界を信じない人が3割くらいしかいないらしい。しかし、どうもあやしい。多くの人が死んだら天国に行っているとナイーブに信じている反面、成仏できるのか心配な人々も多々あるのではないか?少なくも日本人の死生観の歴史を見るとかなり強い死後への恐れが見受けられる。死後何もないと言いながら、やはり死ぬのが怖い、あるいは、愛する者と永遠にいたい、天国で会いたいと願い、死後に思いを馳せる人は多いのだろう。宇宙エネルギーに回収されるというだけでは愛する「個人」には会えない。


古来の日本人の生死観

古来、日本人の生死観はおおらかなもので、死霊は山の上や海の彼方など、この地の連続性のある場所(冥界)にいってしまうのであり、また道徳的懲罰観がなかったという。古事記に出てくる「黄泉の国」には道徳的呵責が皆無。竜宮伝説に象徴される不老不死の他界観がユートピア化して描かれている。そこでは生者と死者の連続性がある。

チベットでは死体は執行人によって解体され、岩の上に置かれ禿鷹に食べられる。それによって死者は天界に行くとされる。輪廻を信じるヒンズー社会では死者を布に包んで火葬にする。河のほとりで火葬され、骨や灰は川に流される。日本では火葬は天皇をはじめ主だった貴族に限られていた。与論島では風葬(遺体を空気にさらす葬法)がある。死体よりその中の霊魂を重視する風俗のあらわれとされる。自然の洞窟の多い、沖縄や薩南の島々では洞窟葬が見られる。

日本では、庶民層は野原に遺体をまとめて捨てるのが一般的だった。従って、そこには死者の個性が無い。空也によって丁重に阿弥陀仏名をもって供養されるようになると、死霊の特定化、個性化がうながされた


仏教伝来以降の日本人の生死観

さて、トマスが、インドより更に東の支那にまで伝道に来ていたとしてみれば、トマスの足跡を印した地方の異教徒に、異常なる衝撃を与えておらねばならぬ。すなわちその衝動!その影響を受けた者は実に仏教の大乗教にして、今まで「無我」を標榜して立っていた仏教がにわかに方向転換、看板を塗り替えて、それまで否定していた「我」を認め、しかも有神論と未来的生命を唱え出し、「自力」を改めて「他力」となし、「未来往生成仏説」を説くようになったものである。(「神道と仏教とをただす」 P4

オリジナルでは「無神無霊魂」、「無我」の仏教が日本では個人のアイデンティティが重視され、個人の「罪滅」や「あの世」での命がかなりのテーマとなっていった。古代インド思想では、地獄は輪廻転生の場所である。業により生死を重ねて、六道輪廻すなわち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道を流転しつづける。「極楽」は輪廻転生を断ち切った解脱の国土である。仏教はその解脱の道を示すものであった。ちなみに「極楽」は旧約聖書のエデン(快楽)からきているのではと仏教学者が指摘しているのは興味深い。(「地獄と極楽」p.28

仏教伝来以降、日本では「地獄」の思想が広まっていった。「往生要集」の著者、平安時代中期の天台宗の僧である源信が日本人の地獄観の骨格をつくったとされる。「それと共に因果応報の教え、道徳的呵責が出てくる。『黄泉の国』には全く見られなかった、生前の行いによって死者が裁かれ、その罰が決められるという道徳的呵責、罰、応報という考え方が、ここに初めて見出されるのである。」(「地獄と極楽」P144

「地獄とはこの世で罪を犯した人が死後に堕ちてゆき、自らの罪をあがなうための世界である。そこには地獄の大王がいて、人々の罪を裁き、その罪によって人々は行き着く地獄を決められ、そこで果てる事の無い責苦を受けるのである。」(「地獄と極楽」P140

そこにはよみがえりの思想はなく、永遠に刑罰を受けることになる。犯した罪はほかのなにものをもってしてもあがなわれることはなく、ただ肉体的な罰を受ける事しか、罪に対する応報はありえないと語られる。仏教というよりはキリスト教の死後観に近い。すべての人が地獄への道を歩んでいるとすれば、どうしたら地獄への道を回避できるのか。そこから親鸞、法然の絶対他力による救済が説かれ始める。阿弥陀への信仰のみによって救われる道が唱えられるようになる。


救い主が必要になった!

皆さんもご覧になったことがあるだろう。阿弥陀如来の来迎図。そこには西方浄土から阿弥陀仏が多数の聖衆を引き連れて迎えにくる姿が描かれる。それにしても西方浄土とは面白い。エルサレムは日本から見て西である。そして、この図、キリストの再臨図によく似ている。雲に乗って御使いと共に「やってくる」。いわゆる「お迎えがくる」のだ。頭の後ろにはよく西洋の天使やキリスト像に描かれる後光まで描かれている。これはもう確信犯と言っていい。




ちなみに56億7千万年後に出現する弥勒菩薩により現世楽園(弥勒浄土)を回復するなどキリストの再臨と千年王国を思い起こさせる。もともと弥勒はインドのマイトレイアの漢字の当て字で、これが日本読みでミロクとなった。仏教学の大家、英国人ゴルドンは「インドのマイトレイアは中国のミレフ、これはヘブル語のメシア、ギリシア語のキリストである。」と断言。同氏が高野山に景教碑(景教はシリアからシルクロードを経て中国に伝えられたいわば西周りのキリスト教)を建てている。

また浄土宗の救い主、阿弥陀に関して森山氏は以下のように書いている。

「法華経では、『久遠成就の釈迦が時に阿弥陀となり、時に観音となり、勢至となる』という、応化身を立てたが、これは使徒トマスのインド伝道の結果、龍樹がキリストを改ざんしたもので、久遠実成(永遠の初め)からいました言の神に命と光があった(ヨハネ1:4)を無量寿、無量光(アミターユス、アミダーバー)と呼んだのである。」

阿弥陀は本来歴史的人物ではなく、上記のように「永遠の命」「永遠の光」という概念で、どうやらヨハネ福音書からのパクリのようだ。そして、この龍樹(ナガラージュナ)とう人物が大乗仏教を形作ったといわれる。

さて、かくして大変化を遂げた仏教が日本に入って来たのである。救いを求めて念仏を唱え、浄土行きを確かにするため阿弥陀像の手に糸をつけ、自分の腕に繋げ「お迎え」を待ったのだった。


どうしても残る罪の問題と再生

どうしてもそこに「滅罪」の問題が出てくる。そのままでは地獄に行ってしまう。そこに滅罪や懺悔の思想が出てくる。山岳霊場は、死者の霊魂の行く世界であった。「後になると、他界である山は、同時に地獄であるといわれるようになり、霊魂の滅罪と贖罪の場であるここで、魂が浄化されれば、天上または極楽へ行かれるという信仰を形成してゆくのである。」(「地獄と極楽」P.146

平安時代には仏名会(ぶつみょうえ)を読み、諸仏の名を唱え、年内の罪障(ざいしょう=懺悔)を祓う法会が行われていた。

さらに、生きている間に疑死再生の信仰が生まれる。つまりborn again. 生前中、一旦死んだことにして再生する儀式を「逆修」と称している。一旦死んで、滅罪をすませ、生まれ変わるという観念が儀礼化されている。仏教上では一旦往生してふたたび「再生」するという信仰になった。全国各地の山岳霊場は大なり小なり、そうした山中他界と、その内部に再生のための装置を備えている。福島県安達郡東和町の岩の裂け目をくぐる「胎内くぐり」はその一つ。出て来る時「生まれた!」と叫ぶ。もちろん、それで再生できる根拠は何も無い。

もうおわかりだろうが、日本人の生死観に「罪」、「裁き」、「地獄」、「救い主」、「疑似再生」という概念が浸透していったということだ。世界中の人間には無意識にこういった概念が埋め込まれているのではないだろうか?だから阿弥陀や弥勒といった罪からの救い主が必要になったのだ?


キリストは罪への解決

キリストは必要に迫られてクリエイトされた救い主ではない。その出現は旧約聖書に明確に語られており、(例えば、イザヤは700年も前に救い主の誕生を預言している。)救い主イエスは、約2000年前、人類の歴史(時間と空間)に現れた。単なる概念ではない。ヨハネはこの方を「じっと見、また手でさわった」(Iヨハネ1:1)と証言している。

キリストの購いは完全
「したがって、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」
(ヘブル7:25)

キリストの購いはただ一度
「ほかの大祭司とは違って、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」(ヘブル7:27)

キリストの購いは永遠
「またやぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の購いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:12)


これにより罪の赦しが確実にされた。イエスは過去、現在、未来のすべての罪を購った。

「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだものであったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘付けされました。」(コロサイ2:13−14)

キリストを信じる者は確実に罪赦され、天国に行く事ができる。日本人の求めてきた究極の救いがここにある!

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参考文献

「地獄と極楽」 図解日本仏教の世界#5  集英社

「神道と仏教をただす」  森山諭 著  荻窪栄光教会出版部

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