2015年1月21日水曜日

普段力



 若い時は伝道イベントや宣教プロジェクトが好きでした。エキサイトしたし、特に人が多く集まれば達成感もありましたし。しかし、冷静に考えてみると、どれくらい実が残ったのかは疑問です。さすがに最近は少なくなりましたが、「特別伝道集会」いわゆる特伝。過去、幾度も経験しました。沢山のビラを蒔き、ポスターをはって準備するのですが、新しく来る人は1−2名ということも多々ありました。しかも、大体は続かないのです。普段の関係なしに、「特別」をやってもあまり効果的ではありません。

宣教団体にいるので、かつては文字通り、北海道から沖縄まで全国各地で伝道訓練会をさせていただきました。セミナーをやり、二人ひと組で公園などに出てゆき実践伝道します。いいチャレンジですし、それで伝道に燃やされる人もいるのですが、やがて熱はさめていきます。リバイバル集会なども、その時は盛り上がるのです。「ハレルヤ!」と大声で叫んだりします。でも、どうしても熱はさめていきます。むしろ1ヶ月後、普段の生活であなたはどうなってますかと聞きたいのです。私たちの学生大会で「お尻に火がつきました!」と興奮して証していた学生がいたのですが、数年後社会人となった彼に会った時、仕事のストレスから無表情で笑顔さえ無くなっていました。とても伝道どころじゃありません。

また、韓国から熱心なクリスチャン学生を招いて日本の教会に送り込み、2週間一緒に生活し、一緒に宣教するというプロジェクトをやっていました。ものすごい刺激を受けて変えられた日本人クリスチャン達も多くいましたし、それをきっかけに献身し神学校に行った人達もいたことは事実です。しかし、反面、毎年来るワーカーに宣教を頼っていた教会もありました。ある教会の牧師が私にこう言ってきました。「このプロジェクトに本当に感謝しています。なぜかというと、その時だけ外に向けて教会の存在を知らせ、伝道ができるからです。うちの教会は年寄りが多いし、普段はなかなかチラシ配布なんてできませんし・・・」これを聞いていて、複雑な気持ちになりました。プロジェクトが役に立っていて嬉しかった反面、「これを毎年続けても、この教会は変わらないだろうな」と悲観的な思いにもなりました。言い方は悪いですが、これではプロジェクトがカンフル剤のようで、教会自体が強くなっていく訳ではありません。

祈りのセミナーも沢山参加しましたし、うちの団体で主催したこともありました。断食祈祷を推進した時期もありました。祈りが折々特別に強調されることは大事でしょう。しかし、イベントとしてではなく、日々祈っていることのほうがもっと大事です。

こんなリストを幾らでも並べ立てられますが、これらのことを通して、「特別」な事より、もっと「自然体」として神が望まれる姿になってゆくことが大事なのだなと教えられてきました。特別な事をやって盛り上げるのは疲れるし、日常が変わらないなら自己満足に終わってしまいます。


初めは修行的なことが必要なのかもしれません。通読など自分にタスクを課すことも時にいいかも知れません。しかし、「もっと祈らなくては、もっと伝道しなければ、もっともっと・・・ねばならぬ」では続かないのです。私はいつしか、この「ねばならぬ」を辞めました。「しなくてもいい」と思うと、実は、気がついてみれば、日常の生活の中でよく神様と会話していますし、聖書も毎日読んでいます。

聖書を開いて伝道した訳でもないのに、ウチの家の家主さんが「あなた達が来てから庭の花や緑がきれいになった。きっと祈りなんでしょうね。」と言ってくれます。以前は伝道も上から目線で「信じないのはお前が悪い」的にやっていました。信じて間もない高校生の頃、圧力的に伝道して母を怒らせてしまったことがあります。クラスメートとの議論に勝っても相手が心を閉じてしまうこともありました。それじゃ、逆効果ですよね。今はノンクリスチャンの方の話をじっくり聞くようにしています。

被災地で仮設住宅をお訪ねした時は、寄り添って話を聞くことがミニストリーだと実感しました。ミニストリーはミニスター、「仕える」という言葉から来ています。「愛する」こと「仕える事」、「他の人の必要を満たす事」、それは立派なミニストリーです。一方的に語ったり、何かをやることではありません。営業成績を上げるような伝道をやっていた時期もありましたが、どうも違うようです。あなたのミニストリーの動機は何でしょうか?(マタ10:36)主イエスは人々を癒す時に「かわいそうに思われた」と書いてあります。主のミニストリーの動機は「愛」と「憐れみ」なのです。業績や達成感ではありません。


日常生活の中で、継続的に人間関係を築き、信頼を築くことは立派な伝道なのではないでしょうか?実際、今教会に来ている人のほとんどは、奥さんに連れられて来たり、友達に誘われて来たという人なのです。いきなり教会に入って来て、根付く人はほとんどいないのです。

ちょっと話は変わりますが、小津安二郎監督の「秋刀魚の味」という映画を見てから小津ファンになりました。世界的にも評価の高い「東京物語」も、何と言う事も無い誰もが経験する日常を描いているのですが、心に残るのです。ああ、これは日常力の映画だと感じました。ギネスブックものの同主演者によるシリーズもの「寅さん」映画の魅力も相変わらずの「いつものメンバー」が「いつもの団子屋」に集まって、「いつもの会話」をしている、あの「いつも感」。それがボディブローのように聞いて来るのです。知らないうちに「寅さん」ファンとなり、「病み付き」になってしまうのです。正に日常力。

最近、私は特別感のない普段の礼拝が好きです。いつもの日曜日。いつものメンバーと。そして淡々と語られる御言葉。アジテーションのような特別メッセージより普段の味がいいのです。そのほうが逆に飽きないのです。そして主との関係も日曜が特別なのではなく、一週間、普段通りなのがいいのです。日曜の朝だけの「営業スマイル」ではなく、365日、「いつも変わらぬ主」と「変わらぬ関係」にいたいのです。信仰生活は短距離ではなくマラソンだと言われます。あまり急に走りすぎると息切れして後が続きません。淡々とマイペースで。しかし、確実に前進しています。ジョン・ウエスレーは「もし再臨が明日あったらどうします?」と聞かれて、「普段通り、庭の芝を刈っています。」と答えたといいます。

スゴくなくていいんです。スゴいように見せかけなくてもいいんです。自然体で、普段どおりの日常力。それがあなたの実力です。あとはバブルなんです。一時的に盛り上がったものは盛り下がるのです。でも自分を忘れ、神に心を向けている時、ペテロが水の上を歩いたような、不思議な歩みができるんですよね。

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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
japantmc@gmail.com (栗原)

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