衝撃的な統計
教会は影響力を失いつつある。
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アメリカ合衆国では、今年だけで3500もの教会が無くなっている。
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今月だけで、1500人もの牧師が牧会を去る。
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今日一日で約7575人が教会を去る。
(ジョナサン・ドドソン「今日の教会は弟子訓練の危機に面している」)
一日7500人としても、1年間で273万人!というとんでもない数字になる。とくにヤングアダルトの教会離れは増大している。ある教会ではカフェを開いたり、ゲーム機を置いたり、果てはipadが当たるという懸賞までつけて若者を惹き付けようとしているらしいが、減少傾向を食い止められないでいる。教会のスタイルが時代遅れだからという理由で去る人は意外と少なく、むしろ本物の霊性を見られないことが大きな理由なようだ。
この引用を載せているシンガポールのエドモンド・チャンは「ある種という確かさ〜効果的な弟子づくりを再発見する」という、つい最近出版された本の中で、こう語る。
「私が声を大にして言いたいことはこのことなのです。『クリスチャン人口は何人いるか』が問題ではありません。『教会はどのようなクリスチャンを育てているのか』が重要なのです。・・・教会の焦点は、弟子づくりから、ただ信者を増やす事に移ってしまいました。」(p46-47)つまりipadで若者を釣っても、霊性が育たなければ、あっと言う間に教会が崩壊してしまうのは目に見えてるからである。
10年も前に指摘されていた!
実はこういった傾向は2005年に出版された資料提供機関バーナグループの創設ジョージ・バナーが書いた「レボリューション」にその傾向が指摘されていた。この本の帯には「何百万人もの信者が既存の教会を離れている・・今、アメリカの教会に何が起っているのか?」となっている。本を開いて見るとアメリカの地域教会の現状が統計データーをもって書かれている。
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通常、クリスチャンが神を礼拝するのは、週2回の礼拝に出席した時だけ。
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10人中8人は礼拝で神の臨在を感じない。
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クリスチャンの半数は、過去1年間に神の臨在を感じた事がない。
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典型的クリスチャンは、一生の間、一人も救いに導くことなく人生を終える人が多い。
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大方のクリスチャンは救いのために祈る時、特定の人を思い浮かべずに祈っている。
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教会に通っているクリスチャンのほとんどは、自分には伝道の賜物が無いので、伝道に責任を持たなくてもよいと思っている。
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新生したクリスチャンのうち、聖書的な世界観を持っている人はわずか9%である。
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人生における成功は何かと聞かれて、霊的な成功を挙げる人はわずかだ。
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教会に通っているクリスチャンで、収入の一割を教会や非営利団体に献金している人は10人のうち1人以下である。
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兄弟姉妹に対して霊的な責任を果たしているクリスチャンは6人に1人。
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新生したクリスチャン夫婦で離婚に至ったカップルの数は、未信者の夫婦とほぼ同数である。
一言で言えば教会が形骸化し、霊的な活力を失ってしまったということだろう。日曜日に「教会に行く」ということが儀式化してしまい、自分の人生にも社会にも影響を失ってきているということだろう。
レボリューション
かつてジョンレノンは「みんな世界を変えたいのさ」と歌った。60−70年代初頭、若者は革命を信じて立ち上がった。我々クリスチャンも世界を変えたい。御国が来て欲しい。御心が天になるように、地にも為していただきたい。そして、世を変えるため、この地をあがなう、「あがないのコミュニティ」として教会が置かれている。その教会に影響力が無くなってきているとすれば、教会自体の革命が必要になる。ジョージ・バナーは教会の「刷新」ではなくあえて「革命」と言った。
「もっと端的に言うなら、革命とは私達が教会に『行く』ために召されているのではないことを認識することである。私達一人一人が教会に『なる』ために召されているのである。(p46)
革命のためには、どうしても教会と礼拝(儀式としての)のことに触れなければならない。
「しかし、聖書には、今日私達が知っているような教会の姿は描写されていないし、勧められてもいないことにお気づきだろうか。現在のような『教会』は何世紀も前に、宗教指導者たちが人々をよりよいキリスト教徒にするために作り出したものである。しかし、多くの人たちが重要と思っている教会—礼拝、職務、行事、建物、儀式—は聖書的でも非聖書的でもない。教会は無聖書的なのだ。すなわち教会組織は聖書には書かれていないのだ。・・教会は健康的で私達の助けになりこそすれ、神聖にして犯すべからずという性質のものではない。」
(p.44 *これに関しては、ジョージ・バナーとフランク・バイオラの共著、「Pagan
Christianity?」に詳しく説明されている。残念ながら日本語訳はまだ、無い。)
教会組織は聖書に書かれていないのであれば、変革するスペースがあるという事でもある。私達の頭の中に日曜朝10時半の礼拝は「神聖にして犯すべからずもの」という固定観念がないだろうか?これを変えることは罪であるという思いが在る。しかし、聖書を読んでみると、実は確固たる論拠はない。アメリカの農民達が集まり易い時間帯だったという説もある。「礼拝厳守!」と若い頃言われた事がある。「礼拝を守る」とも言う。その「礼拝」とは何を指しているのだろうか?もちろん神を礼拝することは当然であり、大切なことだ。聖書を読むと、礼拝はまず、儀式というより「霊的なもの」であることが分かる。
「神は霊ですから、神を礼拝するものは、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)
極端な事を言えば、立派な会堂で4000名集まる有名な牧師の聖書的なメッセージが語られる礼拝に出席していても、ランチメニューを思いめぐらしているようでは、真の礼拝とは言えない。3−4名でリビングルームに集まっていても、真剣に神を求めていたら、そっちのほうが真の礼拝ということもあり得る。もちろん、家の教会にすれば解決するといったシンプルな話ではない。重要な事は真の弟子が育っているかどうかである。ただ、真の礼拝が会堂の大きさや、その教会の有名度や、人数の多さに関係ないことは明白だろう。そもそも礼拝とは、その人の「生き方」であって、礼拝という「行事」に参加することではない。
「あなたがたのからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)
日曜日10時半だけではなく、月曜から土曜までの日々の歩みも同じく大事なのではないだろうか?
何度も言ってきたように、礼拝=教会ではない!教会(エクレシア)はイエスを信じる者たちのコミュニティのこと。つまり私達のこと。礼拝は聖書的にはイエスに献身した霊的な歩のこと。一般慣用句的には日曜朝の合同礼拝のこと。いずれにしてもエクレシアが建物や儀式に言及されている箇所は聖書には無いし、教会=礼拝ではない。日曜朝に教会(エクレシア=信じる者の共同体)が一緒に礼拝しているのである。(あくまで「礼拝している」という動詞形が大事なのだ。)
さらに、ヘブル書10:25について、バナーはこう解説する。
「事実、聖書がクリスチャンは一緒に集まらなければならないと言う時、教会の礼拝や会衆向けのイベントを指して言っているのではない。『ある人のように一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか』(ヘブル10:25)。このような集まりは教会の礼拝だけでなく、スターバックスでも行う事ができる。日曜学校のクラスや、クリスチャンの友人宅で夕食をごちそうになりながら行うこともできる。神は無意味な儀式より人間の心を大切にし、信仰の実践に関して特別な規則を設ける事はしていない。私達が、神から与えられた創造的な力を使って神を愛し、神に栄光を帰することを神は望んでいるのである。事実、神を礼拝することと『教会における集会』を結びつける聖句は聖書にはない。聖書には礼拝は教会の礼拝堂で行わなければならない、だから私達は積極的に教会に関わっていなければならない、とは書いていない。私達は霊とまことをもって純粋に定期的に神を礼拝しなければならないと書いてあるだけである。」(p。121)
「神はご自身にとって重要なこと、私達が守らなければならない事に関しては実に詳細な注意を与えているが、クリスチャンが集まる事についてはほとんど何も語っていないのだ。神が語っていないということは、私達がクリスチャンの行動と働きに関する神の教えに沿って生きている限り、弟子達と一致して生きる方法を自由に作り上げてもよいということである。」(P122)
現代人が価値を置くもの
現代のアメリカはポストモダンであり、若い人を中心に以下のような考えになってきている。人生で最も大切なのは人間関係。結果より過程。効果的に社会に影響を与えるのは、人との会話。一方的にしゃべりまくって信仰を押し付けても、人々は耳を傾けない。パフォーマンスやプログラムより純粋な「愛」、個人的な「信頼性」が大事。原則や命令より、個人的な証や体験を重視。ただ聞くより「参加」や「体験」を重んじる。これは現代日本のヤングアダルトも同じだろう。このような考え方は当然ミニストリーにも影響を及ぼしてくる。ノンクリスチャンの友人を大きな伝道集会に連れてゆくより、個人的な会話をしたいという気持ちが強まっているという。そういう傾向自体が悪い訳ではない。そして、そういう型に合わせられる柔軟性を聖書は持っている。たとえば、集会で一方的に話すより、参加型スモールグループでお互い、聖書の箇所を通して語られたことを分かち合うこともできる。この型だと全員参加できるし、お互いからも学べる。そのために顔を向けて話し合える物理的な環境も大事だ。礼拝堂が固定した長椅子の場合、「お互い」を実践するのが難しくなる。
信仰の表現の場は外に向かう
バナーは面白い指摘をしている。2025年までにアメリカの霊的環境は大きく変わるというのだ。アメリカ人が信仰を体験し、信仰を表明する「場所」として、3分の1は教会、3分の1はキリスト教ではない信仰の共同体を、そして3分の1はマスコミや芸術、カルチャーセンターなどを選ぶと予測されるというのだ。これは2000年には霊的な体験と信仰の表現の場として教会が70%であったのに対して、教会と教会以外の場が同等になってゆくことを示している。また信仰の表現の場も教会堂の中だけでなく、マスコミや芸術が3分の1となるというのだ。これは社会への影響という視野からは好ましい傾向ともいえる。日本でも3:11以来、地元コミュニティと教会との関係が重視されるようになった。
「革命家は人々を世から引き離し、組織との関係の中に置くのではなく、現在いる場所で、神の臨在とはどういうものかを示すのである。これは広義の草の根のリバイバル運動であり、そこにはリーダーもいなければ、それは聖書によってである。・・・・現在は圧倒的に外側から外側への流れになっており、クリスチャンは世を教会の敷地と考え、出会う一人一人が、神の永遠の存在と経験の中で愛すべき魂と考えている。革命家の多くは教会の活発なメンバーだが、彼らのミニストリーは教会という枠の中よりも外の現実の世界のほうがうまくいくようだ。」(133)
霊的なミニムーブメント
信徒が100万単位で既存教会から離れるのはショッキングだが、一概に悪い訳でもない。確かに信仰から離れる人もいるだろうが、「革命的」に生きるために離れる人達もいる。バナーが言う霊的ミニムーブメントは神が「教会」の建物の外で起こしている働きであり、ホームスクール、家の教会、経済界におけるミニストリー、信徒訓練のネットワーク、クリスチャンにより創造芸術団体などだ。日本ではビジネスマンのVIPインターナショナルクラブなども、これに当たるだろう。彼らはそこで励まされ、活き活きと信仰を証している。神に出会う方法や場所には多様性がある。ミニムーブメントの特徴は・・・
1.神に対するまっすぐな信仰
2.個人的な関係を重視
3.人生の変革 トランスフォーメーション
4.明確なグループ目標=霊的成長
5.個人の人生にかかわる
そして、このムーブメントは職業的牧師や宣教師に頼らないという特徴がある。
彼らが生活の場で与えられたポジションのまま、神がご臨在を顕してゆく。信徒/宣教師という枠も超えてゆく。バナーは職業的な牧師は減ってゆくと予測している。
「クリスチャンの生き方そのものが礼拝と伝道の手段となっていくのだ。天幕作り__収入を得る手段として仕事をする一方、世の中に本当のキリストを伝えたいという願いを持ち続ける——は風変わりな1世紀の考え方だと思われていたが、これからは個人の明確なライフスタイルになるに違いない。」
彼らは、同じ思いを持つ人々とネットワークを組み、コミュニティを形成してゆく。それは集会のための集会ではなく、革命のため、そして世界を変革するためである。バナーは言う「革命家が他の革命家のコミュニティにつながることにより、革命家たちは現実にしっかりと根ざし、さらなる理想へと突き進むのである。」
革命のためには流れに逆行する必要もある。当然、変化を希望しない人々からは批判される。確信を持って進むため、神のうちに留まり、神に言われたことを忠実に守ることが大切だ。
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レボリューション〜今、教会に起りつつある革命
ジョージ・バーナ著
地引き網出版 1600円
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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
japantmc@gmail.com (栗原)
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