2015年5月8日金曜日

イエスの宣教(2)


建物より人


イエス様の宣教を見ると、どうも教団や組織を建て上げようとの意図があったようには思われません。ピーク時は男だけで5000人もの人がイエス様の話を聞きに辺鄙なところまで着いて来て、奇跡によって増えたパンと魚で、お腹も満たされた話が出てきます。これだけのフォロアーがいれば、組織を立ち上げるのは容易なように思われます。しかし、イエス様は12弟子を選び、彼らに使命を委ねるため、訓練されたのです。建物や組織より、人にフォーカスしていました。組織を立ち上げるためにはエネルギーを注ぎませんでした。イエス様がオリーブ山から天に昇られた時、地上に残っていたのは建物ではなく、組織でもなく、11人の弟子だったのです。(後にマッテヤが選ばれ12弟子となる。)


見返りを求めない「癒し放し」の奉仕
イエス様の宣教の仕方は面白いイベントで人を惹き付けていたのではなく、「憐れみ」の心で目の前の人々のニーズに答えていた(悪霊追い出し、病気の癒し)のです。世界の言葉を話せるイエス様なら、語学教室で多くの人を惹き付けることもできたでしょうね。しかし、ひたすら愛し、神の国を説いていたのです。自分の教会の宣伝ではなく、「神の国」を宣べ伝えていたのです。イエス様なら、簡単に「ヒーリングセンター」を立ち上げ、お金の儲かるビジネスをすることもできたでしょう。しかし、イエス様は「癒し放し」です。10人の人を癒しても、帰って来て感謝したのは1人のケースもありました。残りの9人を追いかけて報酬を取り返したりはしませんでした。また、自分の教会のメンバーになれと誘いもしませんでした。そういう無償の愛に応答して一人の女弟子は300デナリ以上の高価なナルド油をイエス様に注いだのです。同じ、計算を超えた無償の愛をイエス様に注いだのでしょう。愛は計算づくではないのです。


目的は自分がいなくなる事
ナルド油が注がれたのは、イエス様の埋葬の用意でもあったのです。30歳そこそこの若者が、将来を捨て、自分の欲を捨て、結婚もしないで、人類の救いのため、激しい痛みの伴う十字架刑に自ら向かって行かれたのです。救い主、あがない主の目的は私達の命を救うために、自らの命を捨てることだったからです。何も知らない、ペテロはイエス様がそんな目に会ってはいけないとして、イエス様を脇に呼んで咎めています。(マルコ9:32)しかし、それは神のご計画だったのです。そして、自らが地上からいなくなる時のため、宣教の働きを継続してくれる弟子達を地上に残していったのです。私達も受けた福音や主の教えを次世代に委ねてゆくことが期待されています。(IIテモテ2:2)そういう意味では私達の目的もイエス様同様、「いなくなる」ことです。つまり、言い換えれば、しっかりと福音を継承してくれる人々を地上に残してゆくということです。「私たちの主イエスが再び来られる時、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ、私たちの誉れであり、また喜びなのです。」(Iテサロニケ2:19−20)


第一のものを第一に
人が増えてくれば、集まる場所(会堂)も必要となるでしょう。しかし、一端、不動産を手に入れると、その管理、維持、時には借金の返済に多くの費用やエネルギーを費やすことになります。人が多い時にはいいでしょうが、少なくなると維持する自体も大変になります。また、教会やクリスチャンの団体が法人化されると、社会的に存在は認められますが、書類仕事が増えてきます。人が増えてくれば、ある程度、組織化することも必要悪なのかも知れません。いずれにしても、イエス様のなさった宣教に学ぶべきです。「建物より人」「組織より人」それが逆になってはいけません。組織を大きくするため、人が燃え尽きてゆくようでは、神を喜ばせることはできないでしょう。

イエス様のミニストリーは、純粋な愛から出る奉仕でした。自分の組織を大きくすることが先になってはいけません。自分の組織の名前を広めることが優先になってはいけません。被災地での奉仕は「寄り添う隣人」となることでした。それは被災地に限らず、イエス様のなさった宣教のスタイルです。「営業成績」を上げるような伝道は考えものです。

「先生のメッセージは素晴らしいです。」と言われて悪い気はしないでしょう。しかし、自分が中心となって何でもかんでも自分がやっているミニストリーで会衆がお客さんではいつまでたっても「弟子」は育ちません。イエス様は自分がいなくなる「時」をご存知でした。そして、それに合わせて、次世代を担う弟子達を育てていたのです。もう一人の助け主である聖霊様と一緒に立ち上がる世代をです。


神の国の視野で
イエス様は「神の国」のため働きました。初代教会にはまだ、「教団、教派」はありませんでした。例えば、コリントにある家々の教会を総称して「コリントの教会」と呼んでいたのです。つまり地域にあるキリストの体です。しかし、今日、おなじ地域にある教会でも、教団が違うと「交わり」をもっていない場合も多いのです。今後、大きな地震災害があると、交通機関が止まってしまいます。そうすると教団が違っても同じ地域の教会同士が助け合ってゆく必要が出てきます。そこで、東京では、「顔の見える防災コミュニティの創出」ということで、「教会防災ネットワーク」が始まっています。新宿区大久保通りはチャーチストリートと呼ばれ、教会が沢山ありますが、数年前まで定期的に集う「牧師会」はありませんでした。今はここに教会防災ネットワークが立ち上がり、7つの教会の牧師が定期的に集うようになりました。また、ネットワークの世話人3名が地元商店街リーダー、消防署、社会福祉協議会、区役所防災課に出向いて挨拶をしに行きました。こんなことはかつてなかったのです。さらに信徒同士も繋がってゆく事を期待しています。なぜならキリストの賜物はその地の教会(キリストの体)に散在しているからです。「自分の教会には看護士がいないけど、あの教会にはいる」ということです。その地のキリストの体が協力すれば、沢山の信徒リソースが活用されます。地域コミュニティには沢山のニーズがあります。関心持ったクリスチャン達が教団を超えて協力して取り組めたら素晴らしいのではないでしょうか?

最近、私は思っています。「教会は小さく、ミニストリーは大きく」つまり、教会=エクレシアは顔をあわせて人生を分かち合えるキリスト中心のコミュニティ、それには大人数は必要ないのです。沢山のスモールグループ/ミニチャーチがあればいいのです。そして、地域のニーズを満たすため、様々なミニストリーが立ち上がり、超教派的に連帯して大きな働きをすればいいのです。なんでも1つの教会でやろうとしないで、またやれませんが、関心のある信徒が連帯してやればいいのです。そうすると沢山の可能性が見えてきますね。

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東京のため超教派で一緒にやっている働き  (一例)

山の手祈祷
毎週火曜日、午前10時、JR山手線池袋駅に集合し、山手線に実際に乗って、一周しながら、車内で他のクリスチャンと一緒に「東京」のため祈ります。
ご関心ある方はFace Book pray Yamanote のページをご覧下さい。









代々木公園ホームレスミニストリー


毎週、土曜日、午前7時、代々木公園 南門に集合して、ホームレスの方々と一緒に野外礼拝を持ち、その後、スモールグループで感想を分かち合い、それから朝食を配ります。ご関心ある方は直接、現地にお出で下さい。

これらの働きは、様々な教団の教会から信徒や牧師、宣教師が同じ目的のため連帯して、協力して活動しています。












意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
japantmc@gmail.com (栗原)



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