2015年8月5日水曜日

天命に生きる 


私たちはなぜ、救われたのでしょうか?

  「それは、罪赦され、天国に行くためでしょう?」
  「それなら、なぜ、神はすぐ天国へ連れて行ってくれないのでしょう?」

  「なぜ、この地上に残されているのでしょうか?」
  「地上にいる使命とは何なのでしょうか?」

  「それは伝道して一人でも魂を救うためでしょう?この天地はどうせ滅ぶ 
   んでしょう。だから救霊が最優先でしょう。」
  「そうすると、この世のいろいろな社会的問題は関係ないんでしょうか? 
   いずれ滅びる地上を良くしようとする試みは無駄なのでしょうか?」

  「地上で仕事をする意味は何なのでしょう?仕事は単なる必要悪?」

「救いが魂のことだけなら、なぜ、神はノアの箱船に動物を乗せたので
 しょうか?ノアが救いのタイプなら、なぜ、地球以外の星に行かないで、 
 この地上で生活を再開したのでしょうか?」

ローマ書8:20−22を読んでみると、被造物も回復、解放の時を待っているとあります。どうやら神の救いの計画は全被造物がかかわっているようです。福音/救いには人間の魂の救い以上に、もっと宇宙的な広い視野と内容があるようです。


「救いの物語」としての聖書

魂の救いだけが大事なのであれば、ヨハネの分冊があれば十分なのではないでしょうか?しかし、神のこの歴史に対する御心を知るには旧約聖書から黙示録までの「救いの物語」を読む必要があるのです。



聖書66巻は「はじめに神が・・」で始まっています。神がこの世界を美しい、良い物として創造したことを知ることは極めて重要です。現在の世界の醜さは神の初めから意図したことではないからです。創造の後に「堕落」があり、罪が人類に入り、地が呪われたのです。この理解がないと、現代の悲劇は「神が存在するなら、それは悪魔だ」という結論になってしまうのです。人の罪は以下の4つの関係を壊しました。つまり、シャロームの破壊です。

1.      自分と神との関係 (魂のふるさとの喪失。真善美の喪失)
2.      自分との関係  (アイデンティティの喪失。自己価値の喪失)
3.      自分と人との関係 (コミュニティの喪失、愛の喪失)
4.      自分と被造物との関係 (環境破壊、調和の喪失)

堕落で終わりなら、人類にも全宇宙にも希望はありません。しかし、聖書は神は救いの神であり、回復の神であることを教えています。主の祈りで、「御心が地になりますように!」と祈りますね。御心がなるところが「神の国」なのです。すなわち、神の義、愛、平和が実現するところです。天と地が出会うところです。そして、イエスが来られた時から、神の国が始まったのです。(ルカ11:20)。神の国は「もう来ている」し、「まだ、フルバージョンでは来ていない」のです。つまり、私達は「もう」と「まだ」の間を生きている訳です。

この回復期に神の国を推進する私達の役割があるのです。つまり、シャロームの回復です。そして、やがて天のエルサレムが地に降ってきて、この地上がトランスフォームされます。つまり、完成です。

まとめてみると、聖書の救いの物語は4つの章から成り立ってることが分かります。


創造堕落購い/回復 (造られた物すべての購いと回復)— 完成です。


完成とはシャロームの完全なる実現です。すべてのヒーロー映画は聖書の世界観を踏襲しています。はじめに平和な良い世界があった。そこに悪者がやってきて人々を虐げ不幸にする。しかし、ヒーローが現れ、悪者を退治してくれる。再び、世界は回復され、平和が戻って来る。これが人間の認知調和なのです。だから、ヒーロー映画のハッピーエンドを見て満足して映画館を出るのです。


人間は自分が思っているよりすごい存在。

もともと人は神の似姿に造られています。(創1:27)つまり高尚な存在なのです。有能な存在なのです。詩編8:5では「神よりいくらか劣るものとし・・・」とあります。「神よりいくらか劣る」とは恐縮してしまいますね。

創世記:1:28では、「地を治めよ」と命じられています。それだけの「能力」があるからでしょう。つまり人間は被造物管理能力を持っているのです。2:15では、「地を耕せ」と命じられています。これは英語ではDevelop、つまり、神が造ったものに、人が「手を加え、より良きものにする」という意味です。実際、人はそうやって都市文明を築いてきたのです。神は、神の代理人としてこの地を治めるよう人を地に配置したのです。被造物の管理を人間に託したのです。

ヘブル2:8には、「万物をその足の下に従わせられました。」とあります。もちろん、第一義的にはイエス様のことですが、注意深く読むと将来の人間のことが書かれてることがわかります。神はこの地を天使にではなく、人に任せるおつもりです。

確かに、人は、罪を犯して園を追い出されました。しかし、人間で無くなった訳ではないのです。地を治める命令が永久に取り去られた訳ではないのです。むしろ、その権利を回復するため、イエスが来られ購いをなされたのです。

神の姿に造られ、地を治めるように命じられた人間の目的が単に天国に行くだけなのは、理にかなわないことです。この地上でのよき業は意味が無いとは考えられません。神の救いのご計画の中で、時至って救い主キリストが来られ、購いの業が為され、人間の被造物管理権は回復されたのです私達は長兄であるキリストと共に、今の地を、そしてやがて相続する「地」を統治し、管理する責任があるのです。私たちは、キリストとの共同相続人なのです。(ローマ8:17)


被造物全体のあがないにクリスチャンが期待されている

ローマ8:21を読んでみてください。「被造物も、切実な思いで神の子供たちの現れを待ち望んでいるのです。・・被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私達は被造物全体が今に至まで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしていることを知っています。」とあります。はじめは、ここは「神の子、イエス」のことを言っているのだと勘違いしていました。しかし、注意深く読むと、「神の子供たち」と複数形になっています。つまり、私たち贖われたクリスチャンのことを指しているのです。そう、被造物は期待してクリスチャンの現れを待っているのです。

黙示録ではキリスト者のことを、「彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった」(20:4)とか、「彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる」(20:6)「彼らは永遠に王である」(22:5)などと、「王」として描いているのです。彼らとは購われた民、すなわち私達のことです。贖われた民は、来たるべき世で「王」として描かれているのです。みなさんは王であると意識していますか?私達が自分で思っているより、すごいポジションに置かれているし、大きな責任が期待されているのですね。

良い王ならば自分の国民をすべての災いから守るでしょう。当然、管理(危機管理を含め)が入ってきます。教会で危機管理?でもそれは王として、実にふさわしいことなのです。世界には沢山の危機があります。地震や火山などの自然災害リスク、温暖化や環境問題。政治的にもサイバーテロ、核テロ、戦争、また「エボラ熱」のようなパンデミックの問題もあります。 今まではクリスチャンは霊のことだけ、教会堂の中で祈っていればいい的な、また、伝道して魂さえ救われれば、それでいい的な印象がありましたが、世界は「神のガーデン」なのです。そして、人は「この地を治めよ」と命じられているのです。クリスチャンは、この地に「御国が来るように」祈り、行動する責任があるのです。この世で起こっていることに無関心ではいられないのです。


地上での仕事の意味は?

この世の人がこの世の知恵で「楽園」を築こうとすると、あの「バベルの塔」になるのです。なぜなら、神のご計画を無視して自分の計画と力で世界を築こうとするからです。クリスチャンは「聖霊」を頂いています。だから、神のお心がわかるのです。神の「知恵」や「力」を受けることができるのです。だから、積極的に「神の国」を建設してゆくことができるのです。それだけの能力や権力の無い者に「地を治めよ」と神が命じるのは理にかなわない事です。神様チームの一員として「神の国」建設に勤しむよう召してくださっているのです。地上のどんな仕事も意味があります。地を耕すことの一部だからです。


創世記で「仕事」という言葉に使われているのは「アヴォダ」この語は「礼拝」「奉仕」「ミニストリー」「職人芸」とも訳されています。創世記2:15の「耕せ」はアヴォダ。同じ言葉が「仕事」とも「ミニストリー」とも訳されているのです。聖書的には「仕事」、「ミニストリー」の二元論は無いのです。食べるも、飲むにも神の栄光を表す。本来的には「仕事」「奉仕」「礼拝」「ミニストリー」は繋がっているのです。シームレスライフ。境をつけない。日曜の顔と月曜の顔、変えないで。やる事為す事シャロームのため。これを念頭に。私たちは皆、Kingdom builders(御国の建設者)です。


片手に「聖書」、片手に「新聞」という言葉もありますが、この世で起っている事と自分の信仰生活とは関係があるのです。信仰生活とはただ、日曜朝のプログラムに出席することではありません。Worship service to service as worship. (ただ礼拝という儀式に出ることから週日奉仕するという真の意味での礼拝へ)24時間、7日間、創造主をあがめ、意識し行動します。(ローマ12:1)

「天に御心が成るように、地でも成させたまえ」と祈りますね。地で御心が成るように(つまりは、この地の管理が為されること)、この世とかかわり、行動してゆくことなのではないでしょうか?社会を見渡せば、沢山のニーズが見えてきます。私達が神の手と足となる。「この地上を少しでも天国のようにしてゆくこと」=シャロームの回復、それが私達の「天命」です。神様から知恵を頂き、「この国」の「この時代」の問題をキリストと共に担ってゆくということではないでしょうか? 


「御国が来ますように!御心が天になるように、地にもなりますように!」



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
意味ある人間関係と祈りで広がるキリストを中心とするコミュニティ。
東京メトロコミュニティ(TMC


japantmc@gmail.com (栗原)

0 件のコメント: