エンパワーメント:
無力な状態にある人が、自らの中にある力の存在に気付き、それを自ら引き出してゆくプロセスと結果。
エンパワーメントの欠如している状態:
実際にあるいはイメージとして無力なこと、が学習された無力感、疎外感、自分自身の人生に対して統制感を欠いている状態。
臨床心理士の定義によるとこうなる。残念なことだが、教会の中にもエンパワーメントの欠如している状態が見られることがある。あまりにも強力なリーダーの下で、信徒が「無力感」「疎外感」を感じて、主体的に教会形成にかかわってゆくよりも、「お客さん」となってしまっているケースだ。あるいは自分の人生が他の人(リーダー)にコントロールされている状態とも言えよう。「解放」よりも「拘束」、「自発的」というより「盲従」。
教会で傷ついたという人が結構いる。その中には権威主義的な牧師やクリスチャンリーダーに傷つけられた人もいる。教会やクリスチャン団体が組織として動き出すと、どうしても「人」と「おカネ」が必要になる。そこに教勢を伸ばすプレッシャーがかかる。「ビジョン」の名の下に、カルト的に「恐れ」や「プレッシャー」で信徒を動かす誘惑がある。そうすれば、ある程度、教会は大きくなるのかもしれない。しかし、それは神が喜ぶ方法なのだろうか?
クリスチャンマガジン「舟の右側」でニューライフ教会牧師の豊田信行師が「サーバントリーダーシップの実践」という連載を書いている。一般論としてではあるが、動機付けについて、少々引用してみよう。
「ピラミッド型組織における動機付けは、内部競争(出世競争)による、地位、立場、権限、所得の向上が大半を占める。」
しかし、企業でも自発的動機付けが無いと、結局は生産性の低下をもたらすという。
「成熟社会における動機付けには『納得度』が重要な位置を占める。『つべこべ言わずに言われたことだけをせよ、』『決まったことだから従いなさい』との上からの命令には職務上は聞き従っても、必要最低限の仕事しかしない。」
権威主義的リーダーの動機付けは「即効性」は期待できるが、必要最低限の貢献しかフォロアーから引き出せないという。
カルトはこの極端なケースである。カルトの場合は権威的なカリスマリーダーがいて、信徒はしだいに盲従し、「思考停止状態」になる。リーダーの言うことが絶対で、やがて疑問を持つことができなくなり、言われるまま動くロボットになってゆく。(さらにそれを自分が納得してやっているように信じ込まされるからコワイ)動機に「恐れ」「さばき」そして「集団心理」が持ち込まれる。一方では「昇進」「楽園」というアメを目の前にぶらさげ、「脱会すれば呪い」というムチを用意する。急成長するカルトはだいたいこのパターンだが、一番の問題はリーダーの権威主義と「信徒の思考停止」による盲従なのだ。プロテスタント教会では、そこまで極端な権威主義は無いにしろ、そのような傾向を持った教会はあるようだ。偉大な先生、カリスマ人物であるほど、「先生信仰」となり、信徒が受け身になる可能性がある。
豊田師は、ダニエルピンクを引用して、アメとムチの致命的な7つの欠陥を挙げている。
1.
内発的動機づけを失わせる。
2.
かえって成果が上がらなくなる。
3.
創造性を蝕む。
4.
好ましい言動への意欲を失わせる。
5.
ごまかしや近道、倫理に反する行為を助長する。
6.
依存性がある。
7.
短絡的思考を助長する。
「リーダーにとって大切なのは、健全な人間観である。権威主義的なリーダーが人間を依存的な存在とみなすのに対して、サーバント・リーダーは人間を自律的な存在とみなす。大切なのは手法ではなく、健全な人間観である。キリスト教は性悪説を説く。しかし、行きすぎた性悪説は人の自立性、主体性に対して否定的な見解を抱かせるようになる。」
「外発的動機付け(アメとムチ)は内面的には未熟な個人、集団に対しては効果的である。内面的未熟性とは、内発的動機付けによって自分の人生を健全に方向づけすることができない『自立性、主体性の欠如』を指している。」
チャールズ・リングマは著書「風をとらえ、沖へ出よ」の中で、同じような思想を展開している。
「簡潔に言えば、焦点は人々が完全に人間らしくなることであり、それは人々が自分たちの生活と選択への責任を持つときに可能となります。人々を依存的なままにしておくと、彼(彼女)らの完全な人間性を弱めることになります。」(112)
「牧会的配慮」からお世話しすぎてしまう危険もある。私の知っているある教会では牧師が結婚のお世話から、就職のお世話までしているところがあった。信徒はそれに従うのが「従順」ということになり、ますます自分で決断し踏み出すことができなくなる。
逆に、個々人へのエンパワーメントが強まれば、組織的な庇護体制が弱まるという。旧約の祭祀や王という制度化された権力の諸形態に代わって、新約ではすべての人に神の霊が注がれ、力を受けることになる。ティングマは、その対比としてローマカトリックと再洗礼派のコミュニティとしての教会を挙げている。
「ローマカトリック教会の『庇護体制』モデル、また社会を『管理』しようと試みた宗教改革期の教会より、はるかに新約聖書の教会にイメージに近いのが、再洗礼派の対抗的共同体としてのモデルです。」(122)
「少数が責任を負う教会は、全員が責任を負う教会に置き換えられる」(123)という。つまり「人々と共に働くことであり、人々のために働くことではない」(167)と。
「新約聖書が称揚しているのは、強き者、賢き者、成熟した者が私たちの生活を護り導くべきだという暗黙の庇護体制的な考え方ではなく、人々のエンパワーメントという考え方です。キリストの救いによって新しい自己を着た人々は、共同の兄弟姉妹関係に引き入れられ、労り合い、分かち合う関係に基づき、自分たち自身の生き方に対する責任を引き受けます。また、世にあって変革の担い手になろうと願い、その責任を引き受けます。その帰結として新約聖書は、みなが聖霊によってエンパワーされ、賜物を受け、キリストのからだにおいてそれぞれ担うべき役割を持つことを強調します。(Iコリント12−14章、ローマ12章)」(123)
「現代西洋の教会の大半が夢中で追いかけてきたものは、数的成長、正しいやり方、効果的役割分担、部門化、『トップダウン』のマネージメント、大規模なプログラムの計画でした。」
しかし、その結果、人々は大規模な宗教的サービスが受けられる大きな教会に移り、庇護される「お客さん」信徒が増えてしまったという。
共同体への鍵は「参加」すること。「互い」に励まし、労り合う。一緒に「挑戦」し、共同体的に決定していくことだといいます。
そういうプロセスは教職者をも守るものであるという。
「教会に『人々のエンパワーメント』モデルを採り入れるよう呼びかけるのは、『すべてをこなす』プレッシャーを教職者から取り除き、責任を本来あるべきところ、すなわち神の民に戻すのです。」(173)
最後にこう結んでいます。
「2、3世紀以降、教会は司教、司祭、祭壇の場所になりました。宗教改革の時代、教会は講壇と説教者の場所になりました。新しい宗教改革において、教会は人々をエンパワーするため、責任を分かち合うため、使命を果たすために組織された多様な草の根運動体となり、その解放を阻む制度的落とし穴を、軽やかに飛び越えてゆく勢いとならんことを!」(174)
しかし、教会の変革は聖書に反することにならないか?という疑問が出ることだろう。ティングマは以下のように答えている。
「そもそも、私たちが教会でやることなすことはほとんど、新約聖書と何の関係もありません。教会での習慣や優先順位の多くは、単に伝統から発展してきたものです。」(82)
これは、以前紹介したフランク・バイオラ、ジョージ・バーナ共著の「Pagan Christianity?」(異端的キリスト教?)にもそのタイトルにも見られるように、同様の主張が見られる。
教会が新約聖書の教会の本質に戻る変革は必要だろう。ただ、1つ指摘したいのは、問題は「権威主義」なのであって「権威」そのものの否定であってはならないということだ。神から任されている「権威」というものはある。(ローマ13:1−7)オーガニックチャーチの指導者の中にはヒエラルキーを嫌うあまり、リーダーの権威を否定してしまい、霊的なアカウンタビリティやリーダーシップをまるごと否定してしまう極端な考えがある。イエスだけが「頭」であとはすべてフラットという考えだ。しかし、神に与えられた霊的権威というものはある。その権威を用いて厳しい処置をとることもあり得る。(IIコリ3:10)
いずれにしてもティングマのメッセージは1つの教会のモデルを示すのではなく、どういうモデルであれ、大事なのは個々人の「エンパワーメントするプロセス」であるという点だ。未だに、信徒の側に「そこまでやっちゃっていいの?」という躊躇があるというのが現時点の事実だろう。リーダーが「やっていいんだよ!」という励ましのメッセージを送り続ける必要がある。個々人がエンパワーされ、それぞれの賜物を用いて神の国を広げる貢献ができるため、寄り添っていくのがリーダーの役目なのではないか?
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「キリストは自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたはしっかりと立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)
「愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6)
「兄弟たち、あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに支えなさい。律法の全体は『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです。」(ガラテヤ5:13)
「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」(ガラテヤ5:25)
「私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。」(第二コリント1:24)
「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」(第二コリント3:17)
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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ(TMC)
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