2020年7月2日木曜日

諸国の王なるイエス


 聖書観が決めるキリスト像
世の人は、イエス・キリストは世界4大聖人の一人だという。イスラム教徒は、イエスは偉大な預言者の一人だという。「クリスチャン」と言われる人の中でもキリスト観が違う。リベラル神学者は、イエスは単なる人間だが、人に寄り添う「愛の実践者」だという。福音派は「復活した救い主」だと言う。

なぜ色々な解釈が出るかと言えば、どういう聖書論に立っているかで決まるからだ。自分の理性と主観で読む人は、超自然は無いのだから奇跡は無いということになる。当然、「復活」や「再臨」というトンデモ話は受け入れられない。

弟子たちがイエスに対する畏怖の念から奇跡を作り上げ、イエスを神の子にデッチ上げたということになる。比喩的解釈をする人は、「復活」とは文字通りの体の復活ではなく、「人生やり直し」のメッセージだと受け取るだろう。聖書を神のことばと信じる人たちは「字義通り」の解釈をする。なぜ字義通りの解釈が大事なのか?

あいまいな契約?
神は沈黙の神ではなく、色々な時代に、様々な方法で人に語ってきた。(ヘブル1:1)終わりの日には、御子ご自身が来られ「御国の福音」を語られた。(マタイ4:23)神が重要なメッセージを人に語るのに、どうとでも解釈できる曖昧なメッセージを語るだろうか?特に聖書の神は「契約」の神である。人が商売をしていて売買取引をするのに、どうとでも解釈できる曖昧な契約を結ぶだろうか?

注文書を受け取った部長は「注文者は、我が社のA商品が欲しいと言っている。」と言い、課長は「いやB商品を買うと言っていると思いますよ。」と、受けとった人により内容が変わることがあるだろうか?また「1個1万円で購入する。」と契約書にあっても部長は「額面通りに解釈しないほうがいい。これは相当大きな金額で、という意味だろう」と言うだろうか?契約内容は客観的に誰が読んでも同じ内容でなければならないのだ。そうでなければ取引は成立しない。神が伝えたいことが聖書の言葉だとすれば、聖書は字義的解釈(明らかに例え話や比喩と分かる場合を除いて)をしなければならない。



クリスチャンの中にも聖書が言っている内容を正確に読み取るよりも、聞かされてきたイメージでものを考えている人がいる。「教会」といえば教会堂や日曜礼拝のこととイメージするし、「洗礼」はクリスチャンになる儀式、「御国」とは天にある空間、「復活」とは魂が永続すること・・・などなど。聖書は本当にそう言っているだろうか?


聖書的キリスト像は?
中でもキリストのイメージが偏っていることが多い。キリストは子供と戯れる優しいお方、あるいは、十字架でうなだれている受難者。その面もあるが、多くの人は、口から両刃の剣が出ているキリストなど想像もしたことが無いだろう。(黙示1:16)しかし、キリストには「受難のメシア」と「栄光のメシア」の両方がある。初臨のメシアは「預言者」として、昇天されたメシアは現在、「大祭司」として、やがて来られるメシアは「王」として来られるのだ。将来のメシアは「裁き主」であり「王」である。

この「王」を語るとき、「御国」を理解することが前提となる。「御国」=「神の国」は英語ではKingdomKingdomは「王」がいて、「領土」があって、そこに王の「民」がいて初めて「王国」となる。この「御国」を天国と考えている人が多いが、この「御国」は地上に実現する。だからパウロは「相続する」と言う法律用語を使っているのだ。(天国に「入る」なら、「相続する」とは言わない。)

ヨハネの黙示録では、20章に出てくる地上に実現する「御国」、すなわちメシア王国(千年王国)への伏線として、キリストの紹介をこのようにしている。

「また忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たち
 の支配者であるイエス・キリストから・・・」(黙示1:5)


また、患難期最中、第7のラッパが吹き鳴らされ、「キリストの勝利宣言」、「御国の到来宣言」が前もってなされる。そこでも、このように書かれている。

黙示11:15この世の王国はキリストのものとなった。」あの世ではない、「この世」だ。




わざわざ誤解の無いように「地上」、「この世」と書いている。つまり文字通り、キリストは地上の王となる。今で言えば、ロシアのプーチン、アメリカのトランプ、中国の習近平、英国のボリス、それらのリーダーたちの上にキリストは君臨するということである。

これを変に霊的解釈してはいけない。キリストは文字通り「政治的」に王となる。これは患難期後期、反キリスト(獣)が、実際に、この「地上」の王であるのと同じである。抽象的な霊の世界の話ではない。この「獣」に取り変わってキリストが「地」を治めるのだ


キリストは、なぜもう一度、来られるのか?

「見よ、彼が雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。」(黙示1:7)



地上の諸族が文字通り、来臨のキリストを見るのだ。もし、死んで私たちの魂が「天国」に行き、そこでキリストと永遠に過ごすなら、なぜ、キリストはもう一度、地上に戻る必要があるのだろうか?なぜ、「御国が(地上に)来ますように!御心が天でなるように、地でもなりますように!」と祈るのだろうか?

キリストは地上に見える形で戻って来なければならない。まずは「裁き主」として、「反キリスト」と「偽預言者」を滅ぼすため。そして、サタンを千年間縛り、地上で聖徒たちと共に「王」として、この地を治めるために。黙示録の結論は「見よ、わたしはすぐに来る!」アーメン、主イエスよ、来てください!なのだ。どこに? 「地上」に、だろう。「早く天国へ行かせてください!」ではない!

やがて、やって来られるイエスにしっかり目を留めていよう。ここにすべての希望がある。歴史は終わりに向けて動いている。時間軸の中で「来たるべき世」がくる。(ヘブル2:5)「来るべき都」を待ち望んでいる。(ヘブル13:14)「あの世」ではない、未来に、やって来るのだ。また、「来るべき方」が来られる。(ヘブル10:37)この地上に「来られる」のだ。

これが本当なら、私達の「生死観」が全く変わるはずだ。やがて、この地上に戻って来られるキリストと共に、私たちも「地上」に成就する「御国=千年王国」を治めるのだから。

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Tokyo Metro Community (TMC)

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