2022年9月22日木曜日

聖書はキリスト教の経典ではない!?

 

「聖書はキリスト教の経典ではない」と言ったらびっくりされるでしょう。しかし、聖書はキリスト教という「宗教」のしきたりについて書いている本ではありません。また、イスラエル人のための書でもありません。どうしてでしょう? 聖書が創世記1:1から始まっているからです。

 

はじめに神が天と地を創造された。

 

この時点ではキリスト教も、仏教も、イスラム教もありません。創造主がこの世界を創造されたということです。そして・・・

 

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記1:27)

 

神はクリスチャンを造ったのでもなく、仏教徒を造ったのでもありません。この時点ではユダヤ人もいません。神は人を造ったのです。

 

聖書は神と人類との話なのです。

 

神がアブラハムを選ぶのは創世記11章に入ってからであり、「イスラエル」という言葉も創世記32:28でようやく出てきます。それまでは「人類」の歴史なのです。聖書は創造主なる神から人類へのメッセージなのです。

 

 

神は諸国の王

確かに「イスラエルの神」と表記されることもありますが、基本的にはそのスコープは世界的です。以下はダビデが啓示を受けて書いた詩篇です。3000年も前に書かれた書が現代へのメッセージとして強く響いてきますね。

 

しかし、主はとこしえに御座に着きさばきのために、王座を堅く立てられた。主は義によって世界をさばき、公正をもってもろもろの国民をさばかれる。

                           (詩篇9:7−8)

 

 

主よ立ち上がり人間が勝ち誇らないようにしてください。国々が御前でさばかれるようにしてください。主よ、彼らに恐れを起こさせ国々に思い知らせてください。自らが人間にすぎないことを。 (詩篇9:19−20)

 

このように神が諸国の王(裁き司)であることが明記されています。天に閉じ込められている方ではなく、人間の歴史に介入なさるのです。そして、この神は三位一体の神なのです。従って御子キリストも諸国の王です。

 

また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。

                          (黙示1:5)

 

普遍的な救いの提供

「聖書はユダヤ人が作り出したユダヤ人の救いのための書だろう。」と言う人がいるかも知れません。しかし、旧約聖書にはすでに世界の救いが啓示されています。神は恵みの手段としてイスラエル民族を選びました。それは事実です。しかし、それは国々を祝福するためなのです。福音には「ユダヤ性」と「普遍性」が共に表されているのです。古くはアブラハムへの約束に現れています。

 

地のすべての部族は、あなたによって祝福される。(創世記12:3)

 

また、イザヤ書の中でイスラエルを用いて「世界」に救いが及ぶことが、明確に語られています。

 

わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。 イザヤ42:6)

 

主は言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。(イザヤ49:6)

 

主はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現された。地の果てのすべての者が私たちの神の救いを見る。 (イザヤ52:10)

 

実際、神は外国であるアッシリアのニネベにヨナを送り、救いのメッセージを語らせたのです。これは世界宣教の雛形です。

 

 

諸宗教との付き合い

そうすると諸宗教をどう考えればいいのでしょう。これは難しい問題です。どの宗教の「人」でも、それは神に造られた尊い存在であり、その人権を尊重しなければいけません。どの人も神から命を頂いています。しかし、その「教え」は、そのまま受け入れるわけにはいかないのです。一般には「比較宗教学」というのがあり、すべての宗教を並列にまな板の上に置いて、解剖して比較します。「キリスト教」という「宗教」は、そこに乗っけてもいいでしょうが、聖書の真理は、他の宗教の内容と同等には置けないのです。それは人の作品ではなく、神の「啓示」だからです。(IIテモテ3:16、ガラテヤ1:11−12)

 

創造主なる神が人を造ったのです。その時点ではキリスト教も仏教もありません。神は「人」を造ったのです。人が「知恵の実=自分をすべての判断基準にする」を選んだ結果、神を離れ、その知性は暗くなり、サタンの影響を受けやすくなったのです。ニムロデはサタンを真似て神のようになろうとバベルの塔を建て権力を誇示しようとしました。あの事件以来、人は世界に離散していきますが、それに伴い諸宗教を生み出していきます。聖書的には諸宗教は罪の結果なのです。(ローマ1:19−23)パウロは、偶像礼拝は悪霊との交わりであると言っています。(Iコリント10:20)

 

 

急転直下の福音派の神学

多様性を認める世界的動きの中で、諸宗教を同等に認める動きになっていきます。クリスチャンの間においてもそうなるでしょう。すでに以前の記事に書きましたが、WCC(世界キリスト教協議会)では「改心」を迫ることは他宗教に「失礼」なことであり、回心を迫らない選択をしているようです。この方向は、やがて諸宗教を統一していく方向となり、世界統一宗教へ向かうでしょう。福音的なクリスチャンは排他的だと非難されるようになるでしょう。しかし、それは聖書が言っている通りであり、(IIテサロニケ2:3)想定内です。ここの聖句が言っている「背教」とは、もともと信じていた信仰を捨てることです。

 

2022年9月19日のChristianity Todayの調査発表(によると、米国では、福音派と呼ばれる教会の中にも、1)聖書は字義通り正しい訳では無い。(26%)2)神はキリスト教以外の信仰を受け入れる。(56%)イエスは神の被造物である。(73%)3)イエスは神ではない。教師に過ぎない。(43%)4)聖霊は人格的な存在ではない。(60%)5)人は生まれつき罪深いのではない。(57%)というような異端的神学思想が広まっているというのです。(詳しくはこちらを)


https://www.christianitytoday.com/ct/2022/september-web-only/state-of-theology-evangelical-heresy-report-ligonier-survey.html?fbclid=IwAR0vS9Ok0PivFosKRVoK1EuYMpXr3o5e9Y7XB23krRSnd9911lD-6ZTA_Wg

 

聖書の3分の1は「預言的」な書物ですが、アメリカではたった3%の牧師しか「預言」を取り扱った説教をしていないそうです。「トンデモ話」をすると人が教会に来なくなる?そうやって聖書から「超自然」や「預言」的要素を取り除いていくと、結局、聖書は単なる道徳書となってしまいます。キリストの「復活」や「再臨」を除いてしまえば、他の宗教の道徳律と変わらなくなり、合併しやすくなるのです。ここにサタンのそそのかしがあります。現にアメリカやオーストラリアの有名な牧師達がイスラムの神と聖書の神は一緒だから認め合っていこう的な運動を起こしたと聞いています。しかし、聖書の神は三位一体であり、イエスは神なのです。しかし、イスラムではイエスは預言者の一人であり、人間なのです。同じ神でしょうか? 

 

 

聖書が語る諸宗教の行く末

聖書が語る方向は、諸宗教を一致させるのではなく、まことの神に立ち返ることです。「御前に来たれ」が方向性です。そもそも創造主を離れたところから諸宗教が発生したのです。(ローマ1:20−23)この創造主は三位一体の神なのです。(ヨハネ1:1−5)だからイエス・キリスト以外に救いはないのです。(使徒4:12、ヨハネ14:6)

 

まことに、どの民の神々もみな偽りだ。しかし主は天をお造りになった。威厳と威光は御前にあり、力と喜びは御住まいにある。もろもろの民の諸族よ、主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。ささげ物を携えて、御前に来たれ。聖なる装いをして、主にひれ伏せ。  全地よ、主の御前におののけ。まことに、世界は堅く据えられ揺るがない。天は喜び、地は小躍りせよ。国々の間で言え。「主は王である」と。 第一歴代誌16:21−31)

 

「諸国の神々は偽り」と明言しています。むしろ、「すべての国々の民がまことの神の御前にひれ伏すように」と語られているのです。それが聖書の方向性です。「主は王である」とは政治的なフレーズです。世界の王は一人です。イエスは「地の王たちの支配者」(黙示1:5)なのです。世界の王ならば、この方の前にひれ伏す方向性しかないのです。これはメシア王国(千年王国)で成就します。大淫婦に象徴される「霊的姦淫者=諸宗教、あるいは反キリスト的世界統一宗教」は裁かれるのです。(黙示録17章)

 

もう一度言いますが、他宗教の「人」を裁いているのではありません。「人」は

他宗教をやっていようと神の愛の対象です。聖書は神と人の話です。特定のグループの人のためではありません。誰でも憐れみを受けるのです。「今は恵みの時、今は、救いの日です。」IIコリント6:2)今、話題の統一協会だけではありません。多くの人がサタンの偽りの霊に騙され、イエス以外でも救われると信じ込まされているのです。人は憐れむべきですが、その間違った「教え」は受け入れる訳にはいかないのです。その教えは裁かれます。「偽り」だからです。聖書は、人がその造り主である神に戻ろうという話をしているのです。ただ、戻る道はイエス・キリストなのです。

 

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

                         (ヨハネ14:6)

 

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付録記事

パクリの浄土真宗?

先日、「関東大震災」のフィルム映像がyoutubeに上がっていたので、見てみました。震災後、築地本願寺の僧侶の奥さん達がだいぶ被災者支援に貢献したようです。被災した子供達に「我らは仏の子供達」という賛美歌ならぬ「賛仏歌」を教えている場面がありました。何とも言えぬ思いがしました。そもそも慈悲深い仏様や、救ってくれる「阿弥陀様」はどこから来たのでしょうか・

 

元々は、「無神」「無霊魂」の哲学としての仏教でした。これが小乗仏教(ヒナヤーナ)ですね。一人で座って悟りを開く。ただそれだと一般人には、ハードルが高いのです。それで、救い主としての阿弥陀や、天国としての「極楽浄土」の思想が、のちに入り込んできたのです。これが大乗仏教(マハヤーナ)ですね。より多くの衆生を「救い」に導く方法としての教えです。どうしてこんな方向転換ができたのでしょうか?

 

キリストの弟子のトマスがインドに伝道し、その教えが広まり、危機感を覚えた仏教側が、新約の教えをパクリ、「救い主」や「天国」の思想を盛り込んだという説があります。しかも、大乗仏教は紀元1世紀頃始まっているのです。タイミング的にも合いますね。確かに、そういうことでないと、180度の方向転換は説明がつきません。

 

日蓮聖人が広めた「南無妙法蓮華経」は「蓮の花のようなお経に心から帰依する」という意味で、創価学会では「南無妙法蓮華経は、宇宙と生命を貫く根源の法です。」と説明しています。ここでは帰依する対象は「宇宙の法則」であり、非人格です。しかし、「南無阿弥陀仏」となると、阿弥陀如来(あみだにょらい)という仏さまに呼び掛けて、信じてお願いする、という意味になってきます。阿弥陀如来とは大乗仏教の仏さまであり、「阿弥陀さま」と呼ばれる「人格」を持つお方となっています。その名を唱えることで仏さまへの感謝の気持ちや死後に極楽浄土へ行きたいという願いを伝えられるらしいのです。おばあちゃんが唱える「ナンマイダ」は「南無阿弥陀仏」を略した念仏の仕方でしょう。

 

何れにしても、阿弥陀様は人格を持った「お方」ということになっています。また大乗仏教ではブッダ(悟り人、ガウタマ=シッダールタさん)が神格化され、永遠化されています。大乗は仏陀を俗界を解脱した存在であるとして,釈迦はその超絶した天上の存在が地上に現れた仮の姿であると解釈するというのです。突然、「超絶した天上の存在=神?」が出現します。もともとそういう「お方」はいなかったはずでは? ま、あったほうがやっぱり説明しやすいですよね。それで無神論の体系から、有神論的体系へ大飛躍してしまったのです。これって、何か外からの刺激なしに有り得ることでしょうか?

 

阿弥陀に戻りましょう。そもそも阿弥陀という言葉はアミターバ(無量の光=永遠の光)とアミターユス(永遠の命)という「概念」であり人格ではありません。このことは僧侶であり、小説家の玄侑宗久さんが証言しています。しかも、永遠の「光」と永遠の「命」、どっかで聞いたことのある用語ですね。ヨハネの福音書1章を彷彿させます。

 

キリスト教では

  「主の御名を呼ぶものは皆救われる」のであり、御国が約束されます。

  浄土真宗では

  「阿弥陀様」の名を呼ぶものは皆救われるのであり、極楽浄土が約束されま

す。

 

どちらも行いによらず、「信仰」による救いです。一方は賛美歌を歌い、一方は「賛仏歌」を歌い、一方は「イエスを信じて光の子供」であり、一方は「仏の子供」になるというのです。完全に平行的な構造になっています。どちらかがパクったのではと疑いたくなるのも仕方ないですね。日本人の多くにとっては、心情的にはどちらでもよく、日本人の心情に合う方でいいではないか?西洋ではイエス様、日本では阿弥陀様があるのだから、「これでいいのだ!」となる訳です。しかし、心情的には良くても、真理的にはそうはいきません。阿弥陀様の御名で救われるのでしょうか?そもそも阿弥陀様は歴史的人物ではないし、人格的存在でもないのです。そこを突っ込まないのが日本人の弱さというか、優しさというか・・「真理」より「心情」。そもそも「イワシの頭も信心から」の日本人には「真理」は関係ないのかも知れませんが・・・ここに「偽りの霊」の働きを見るのではないでしょうか?

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

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