2023年6月29日木曜日

日本文化が聖書の真理を妨げる(1)

 

日本人的謙遜?

先日、バイブルスタディグループでこの話題が出たので、深掘りしてみます。日本の美徳とされる「謙遜」が、聖書的に生きる妨げになってしまうことがあるのです。「まだまだ・・・」、「自分は出来てない」、「自分は救われた罪人に過ぎません」。日本人には良く響く言葉ですね。「ああ、あの人、謙遜だ」と思われるでしょう。

 

前回、「霊・魂・体の救い」について話しましたが、霊と魂をごっちゃにすることでさらに混乱し、「出来てない」意識が高まるのです。そして、救いの確信を持てない人も多いのです。「わたしなんか、『まだまだクリスチャン』だから胸張って天国にいける身分じゃない・・・」なんて思ってませんか。

 

もう一度、整理しましょう。霊においては、私たちは「すでに」義とされ、全うされています。つまり、完全に救われており、これに付け加えたり、変更したりすることはできないのです。

 

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。  (ローマ8:1)

 

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。  (ローマ8:33−34)

 

法的な判決はすでに下っています。キリストにあり「無罪」です。以前のブログ記事「クリスチャンは救われた罪人か?」で、詳しく説明しましたように、聖書では救われた人を「罪人」呼ばわりしている箇所はありません。ローマ5:8で「私たちが罪人であった時・・・」と言っていると言うことは、「今」は罪人ではないと言う事です。クリスチャンは「聖徒」であり「神の子供」です。放蕩息子は父の家に帰ったのです。もう、さ迷ってはいません。本線に戻ったのです。ズレ人(罪人=的を外している人)ではありません。「罪人」ラインのアダムの子孫から。「聖徒」のライン、キリストに属する「新人類」になっているのです。「新しく造られたもの」IIコリント5:17)です。

 

この辺りはしっかり押さえておきましょう。そうしないと、毎週、礼拝に来て「私は罪人です。お赦しください」とうなだれて、この祈りを繰り返し、いつまでたっても「救いの確信」を持てないままとなるのです。朝起きたら、宣言してください。「私は、神に愛されている神の子供です!」とそれが事実ですから。それ以外はサタンの声です。サタンにやられっぱなしではいけません。しっかり、対抗しましょう。その権威があります。

 

ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ4:7)

 

一方、魂は、この地上では工事中です。sins(複数形)は犯します。ただ、もうその備えはあるので、聖霊に示されたら、その罪を告白し、備えられている「赦し」を頂きましょう。(Iヨハネ1:9)「神ご自身」が、あなたを全く聖なるものとしてくださいます。(Iテサロニケ5:23)そこに希望を置きましょう。

 

 

間違った聖書の引用

確かに神は「へりくだる」ことを求めておられます。(ミカ6:8)、(Iペテロ5:6)よく「謙遜な祈り」の模範として引用されるのはルカ18:9−14でしょう。「ほら、自分を罪人と認識する謙遜な人の祈りが、神に受け入れられるでしょ」と言うかも知れません。この箇所を注意深く見てみましょう。

 

人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。

                           (ルカ18:8)

このイエスの問いかけた質問の応答として、それでは、どんな人が救われるのかという文脈で話が展開しています。まず、この二人の対比の話は誰に対して語られたのでしょうか?

 

自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。(ルカ18:9)

 

つまり、当時のパリサイ人たちです。彼らはアブラハムの子孫は皆、自動的に救われ、ましてや、律法を守っている自分たちは報酬がもらえるはずだと考えていたのです。つまり、自分が「罪人」であるという自己認識がなかった「救われていない」人々だったのです。それに対して、自分が「罪人」だとの認識を持って、憐れみを求めた取税人の方は、「義と認められて」、すなわち「救われて」帰路についたのだということですね。取税人の祈りは「救われる前」の罪人としての正しい自己認識を表していたのです。

 

私たちはキリストを信じて救われ、子としてくださる御霊を受けたのです。神との和解を得ています。神との関係が変わっています。私たちは御父を「裁き主」としてではなく、「アバ、父」と呼ぶのです。(ローマ8:15)

 

したがって、救われた私たちが「罪人」の祈り『神様、罪人の私をあわれんでください。』  をする必要はもはや、ないのです。神が見てくださっている私たちのステイタスは「罪人」ではなく、「聖徒」、「神の子供」です。天から聞こえてくる声は「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:17)なのです。びくびくした「罪人意識」で生きるのはやめましょう。

 

自己卑下の祈りは返って、神を悲しませます。それは、謙遜どころか、神のことばに対する不信であり、高慢でさえあるのです。

 


聖書的謙遜とは?

もちろん、神の前にへりくだることは大事です。しかし・・・

 

聖書的な「へりくだり」とは自分の力に頼らず、自分の判断に頼らず、「御言葉」が言っている通りを、信じ、従うことです

 

自分を単に卑下することは、聖書的ではありません。謙遜とは神の下に自分が砕かれることであり、つまり、それは、世の常識、また、自分の経験や、知恵で判断しないことです。むしろ、神が語っていることに従うことです。

 

プロの漁師であるペテロは一晩中、漁をして1匹も獲れなかったのです。しかし、大工の子であるイエスが「深みに漕ぎ出し、網を下ろしなさい」と言われたのです。ペテロはそれでも、「あなたがそう言われるなら・・」と従ったのです。これこそ、聖書的「謙遜」です。そのように感じても感じなくても、聖書が言っていることを、その通り「信じる」ことです。自分が砕かれていないとこれは出来ません。

 

しかし、あなたがたは「選ばれた種族」、「王である祭司」、「聖なる国民」、「神のものとされた民」です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。  

                         ( Iペテロ2:9)

 

どう感じようと、これが聖書の言う、あなたのアイデンディディです。高ぶる必要はありませんが、もう少し、聖書が言っているステイタスを確信して、堂々と生きてもいいのではないでしょうか。

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

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