2023年9月7日木曜日

キリスト道

 

日本人は「道」が好き

「茶道」「華道」「剣道」「柔道」これらは、「道」なのですね。単に技術を学ぶのではなく、「生き方」「あり方」を習得していくからでしょう。その「道」を「極める」とかも言います。例えば「料理の道を極める」など。そこには技術を超えた「精神的」なものも含まれるのでしょう。

 

「キリスト教」は「キリスト道」

東北の被災地でボランティアに来ていたクリスチャンを現地の人は「キリストさん」と呼びました。言い当て妙ですね。それは「キリスト教徒」より本質を得た呼び名です。「キリスト教」という「宗教」をやっている人ではなく、キリストが内に生きている人なのです。キリストと同質化している人なのです。だから「キリストさん」なのです。また、「クリスチャン」というハイカラな名前より、日本的でいい響きですよね。

 

キリストの弟子たちはアンテオケで初めて「クリスチャン」と呼ばれました。(使徒11:26)そう「呼ばれるよう」になったのであり、そう自称した訳ではなく、そう呼ばなければならない訳でもありません。1世紀には「キリスト教」という言葉もなく、しばらくは「この道」と呼ばれていたようです。そして、これに従う者を「この道のもの」(使徒9:2)と呼んでいました。やっぱり「道」ですね。

 

その後、Christianityが訳されて「キリスト教」となったわけですが、本来「教え」という要素は入っていません。ブッダの「教え」で「仏教」、モハメッドの教えで「イスラム教」ならいいですが、Christianityはキリストの教えの集大成ではないのです。キリストご自身は書物を残していませんし、弟子たちの書物も「キリストの教え大全」ではなく、キリストご自身(キリストがメシアであること)を伝えているのです。

 

キリストご自身も「私が道であり、」(ヨハネ14:6)と言われました。そのキリストが自分の内にあって生きる生き方(ガラテヤ2:20)が本質なのです。すなわち「キリスト道」です。ちなみに「神道」は「道」ですね。本来、キリスト教は「神道」です。世界の創造神の「道」を歩む者たちです。初代クリスチャンは「キリスト道」だったのです。人が作った「宗教」をやっていたという意識ではなかったのです。それはキリストの命が入った「生き方」そのものであり「ライフスタイル」であったのです。

 

「キリスト教」に違和感を覚える人たち

最近、「キリスト教」という「宗教」に違和感を感じるクリスチャンたちが増えてきました。日曜の朝の礼拝儀式に集うことでアイデンディディを保つのではなく、生けるキリストと共に、いや、キリストがうちに生きてくださる日常生活をする人々なのだという意識の覚醒です。そろそろやめませんか?「キリスト教」。キリストご自身は魅力ある方なのです。「キリスト道」は魅力ある生き方です。退屈な宗教儀式ではないはずです。聖書の記者たちが伝えたのは、規律に従う退屈な宗教ではなく、「いのち」そのものだったのです。特にヨハネは「命」を大事なテーマとして福音書や手紙を書いています。

 

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。 (ヨハネ20:31)

 

その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。Iヨハネ5:11−13)

 

そして、エクレシアは、神に召され、「いのち」を頂いたもの達の集まりであり、「キリストの体」であり、「キリストの充満」です。「教える」会ではありません。

 

「茶道」、「華道」、「柔道」そして、「キリスト道」

 

そろそろ「キリスト教」を「キリスト道」、「教会」を「エクレシア=神に召された者の集い」にしませんか?

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

 

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