2023年9月14日木曜日

聖書に書いてありますよね?


私達、「福音派」は聖書を(原典において)霊感された「神のことば」として信じ、信仰と生活の唯一の規範と考えています。

 

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義 の訓練のため有益です。IIテモテ3:16)

 

「聖書に書いてある!」が決定打になるのです。ただ同時に、聖書の正しい読み方は、文脈や背景を考慮して読む読み方です。誰がいつ、どのような状況で、誰に宛てて書いたのかが重要なのです。そうしないと「聖書に書いてある」を振りかがしてトンデモないことになります。

 

それは旧約ですか、新約ですか?

旧約と新約ではパラダイムが変わっています。旧約は「古い契約」、新約は「新しい契約」です。通常、新しい契約が交わされると古い契約は破棄されます。(ヘブル8:13)聖書の場合、破棄というよりイエス・キリストにおいて成就したので、イエス・キリストで十分ということです。旧約時代はキリストが現れるまで「養育係」として律法が機能していました。キリストが現れ、御霊が降ったので、新約時代は御霊に導かれて生活します。従って、旧約の律法をそのまま現代に適用することはしません。これを間違えるとエホバの証人のように、旧約の律法を持ち出して「輸血」は罪と言ったりすることになります。

 

現在は「安息日の主」であるキリストを崇めることで、安息日の規定に従わなくてもよくなっています。罪なき子羊が完全な贖いをなしてくださったので、動物犠牲も捧げません。

 

当時のイスラエルには「聖と俗」の区別を教えるために「きよさ」に関して詳細は規定がありましたが、新約時代は御霊が内住することにより、その規定からも解放されています。従って、「汚れている」とされている豚や鱗のないものも食することが可能になっています。

 

 

十字架前ですか、十字架後ですか?

トリッキーなのは福音書に書かれているイエスの地上生涯の時期です。これは十字架前なので、旧約の律法がまだ生きている時代です。イエスご自身、安息日を守り、ユダヤの例祭に参加し、律法を守っておられました。有名な「山上の垂訓」は、ユダヤ人を対象に、旧約の律法を神の視点からの解釈しているものです。また、十分の1論争が出てきますが・・

 

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ (マタイ23:23)  

 

ほら、イエス様も「10分の1をおろそかにしてはいけない」と言っているではないか?・・と言われるかも知れませんが、これはまだ十字架前で旧約のパラダイム、すなわち、旧約の律法の生きている期間だったのです。

 

献金に関して新約の規定は以下のみです。

一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。

                        IIコリント9:7)

 

新約の手紙に書いてあるけれど・・

さらに厄介なのは、新約に書かれている十字架後の規定です。初代教会でのプラクティスをどこまで現代の教会に当てはめるかです。例えば・・・

 

しかし、女はだれでも祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭を辱めることになります。それは頭を剃っているのと全く同じことなのです。女は、かぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭を剃ることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。 Iコリント11:5−6)

 

パウロがかなりストレートに語っています。「聖書に書いてある!」のです。しかも、新約に。パウロは、教会宛てに書いているのです。そして、初代教会はこのように行っていたのです。ならば、そうすべきじゃないですか?とは当然の質問ですね。

 

しかし、実際、礼拝に女性がベールを被って参加する教会はごく稀でしょう。それでは私達は聖書に従っていないのでしょうか?多くの教会では「いやこれは当時の文化だから」で説明しているようですね。当時は、被り物をしない女性は、娼婦だったようです。女性に対して厳しい規定をしているパウロですが、一方、奴隷制に関しては寛容だったようです。当時のローマ社会では、奴隷(当時の奴隷は、家庭教師であったり、召使い、お手伝いさんのようなものだった。)がいるのは当たり前の環境だったので、その文化環境を受け入れながら、信仰を保つように勧めています。(コリント7:20−21)

 

70年代、教会の礼拝でギターを弾くことはタブーだった時期がありますが、時と共に寛容になっていきました。欧米の宣教師が福音と共に欧米文化を一緒に持ってきたので、混乱したこともあります。北欧に適した三角屋根の教会堂をマネする必要はありません。聖書には教会堂に関しての規定は書いてありません。文化と福音そのものを区別していく作業が必要です。

 

また、これも議論を醸す箇所です。

私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。 IIコリント2:12)

 

先のコリント11:5では、「女はだれでも祈りや預言をするとき・・・」とあるので、女が教会で、祈りや預言はしていたことが明らかです。しかし、「女が教える」を「教会の講壇からの説教」と捉えて、女性がメッセージすることを禁じる教派もあります。女性の牧師を認めない神学校もあります。教派によっては、かなり自由で、夫人が牧師、夫は平信徒というケースもあります。ある教団では女性が教団理事長をしています。

 

このように「聖書に書いてある」のですが、実際のプラクティスにおいて違いが出てきます。単に「当時の文化」では済まないケースもあり、聖書全体から考察が必要になりますね。

 

字義的?比喩的?

これも、福音派の中でも議論が分かれます。特に黙示録となると・・・

 

黙示録に出てくる二人の証人。(11:3−5)ゼカリヤ4:14から文字通り、油注がれた「2人の証人」と解釈する人もあれば、これは比喩であり、黙示11:4から燭台=神の民(教会)なのだと言う人もいます*。特に、5節に「もし誰かが彼らに害を加えようとするなら、口から火が出て、敵を焼き尽くす。」とあり、「幾ら何でもそれはあり得ないので、やはり教会のことだろう」と言う人もあり、いや、エリヤは天から火を下したのだから、これもあり得るだろうと考える人もいます。黙示録9章のサソリの尾を持つ「イナゴ」や獅子の顔をした2億の軍馬なども、「こんなトンデモ話、まともには受け取れない、裁きの象徴だろう」と言う人もあり、「これらは底知れぬ穴から出てきた悪霊ども」と字義的解釈する人もいます。千年王国も文字通り、千年なのか、3年半の激しい迫害との対照的な数字なのか?などの議論があります。また「火と硫黄の池」の火は文字通りの火なのか、比喩なのか・・・などなど、きりがありません。

ただ、「比喩的解釈」には人間的な恣意が入り込む危険性もあります。

 

確かに聖書には、「そう書いてある」のですが、解釈が違ってくるのです。最近のLGBT神学論議でも、保守派の多くは「そう書いてる」と字義通りに読むのですが、LGBT擁護派は、当時の文化背景などを考慮して、「実は、こういう事です。」と再解釈しています。同じ土俵に立っていないので、意見が噛み合わないのです。最近は同性愛者の聖職者を認める教団もあります。

 

トンデモ話が現実に・・・

正直、聖書にはたくさんのトンデモ話があります。しかし、現代の常識だけで全てを判断するのも間違っています。ユークリッド幾何学の時代には「平行線は交わらない」が常識でしたが、相対性理論の時代になると「時空は歪む」が常識になりました。「超ひも理論」を提唱する先端の宇宙物理学者は異次元の存在を真顔で語っています。100年前の人には、インターネットやAIはドンデモ話だったでしょう。黙示録11章の二人の証人が反キリストに殺され、エルサレムの大通りにさらされている姿を全世界の人が見る(11:9)とありますが、100年前まで、「そんなことはあり得ない、やはり聖書はデタラメだ」と言えたとしても、SNSの発達した今、これを疑う人はいません。「世界統一政府」や「世界統一宗教」も、昨今の動きを見ると現実味を帯びてきています。

 

また、聖書の世界観は、全能の神が世界を創造したのであり(・・と言う事は世界を消滅させることも可能)、また、天的な存在(神、御使、悪霊など)を前提にしています。受胎告知では御使がマリアに現れ会話をしています。サタンは、かつて御使だったことを考えると、サタンや悪霊が地上に姿を現すことも、人と会話することも不可能ではありません。聖書はそういう世界観なのです。それを理解した上で聖書解釈をしてゆく必要があるのだと思います。だから、黙示録の記述が文字通り起こることは可能なのだと思われます。(例えば黙示録20:11)

 

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  P。98 「子羊の王国」 岡山英雄 著 いのちのことば社

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執筆者:栗原一芳

 

 

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