2023年12月14日木曜日

残念な説教

 

「罪人」であることを覚えていなさい?

最近、あるクリスチャンの方から手紙を頂きました。その方は牧師の説教を聞いて、「一番大事なことは、自分が罪人であることを常に覚えていることだ」と教えられたそうです。謙遜であることは大事です。しかし、これは聖書的ではありません。引用された聖句は、あのルカ18:9−14。

 

自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」 (ルカ18:9—14)

 

よく「謙遜」を学ぶために引用される聖句ですね。結論から言うと、これを救われたクリスチャンに適用するのは間違っています。まず、イエスは誰に対してこの話をしているのでしょうか?「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに」であり、つまり未信者に向かって話しているのです。未信者は救われていないので、まず自分の罪を認める必要があるのです。特に当時のパリサイ人です。パリサイ人は自分を「罪人」と思っていないので「赦し」を必要とせず、救われていないのです。一方の取税人は自分を「罪人」と認識し、あわれみを求めたので「義」と認められ帰宅したのです。

 

クリスチャンはイエスを信じて「義」と認められました。義と認められた人は、もはや「罪人」ではないのです。裁判で無罪判決を受けた人は「罪人」でしょうか?「罪人」の認識は「救われる前提」なのです。救われる前には必要です。しかし、信仰によって義と認められ、救われたものは、「聖徒」であって「罪人」ではないのです。コリントの教会に書いた手紙で、パウロは「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ」と挨拶をしています。問題多いコリント教会でしたが、「コリントにいる救われた罪人たちへ」ではないのです。

 

「罪人意識」は返ってクリスチャン生活を害する

クリスチャン生涯を通じて自分が「罪人」だと認識し続けることは贖ってくださったキリストに対して失礼でさえあります。ここまで犠牲を払って義と認めていただいているのに、まだ「私は罪人でございます」と言っているとしたら、キリストが成した御業は無駄だったと言っているのに、等しいのではないでしょうか?「聖徒としてくださって感謝です!」が本道です。

 

自分を「罪人」と認識していると、当然、罪悪感が生まれます。そして、罪悪感を消すために業に頼ろうとする誘惑が来るのです。もっと、献金、もっと奉仕・・と。でも平安は来ません。喜びが来ません。だって「罪人」のままなんですから。牧師も信徒を「罪人」にしておくことで「もっと、もっと・・と脅かす」説教ができるのです。残念ながら、そういう「解放されていない」クリスチャンが多くいるのではないでしょうか。

 

キリストが私の「義」となってくださった

しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。  コリント1:30)

 

この御言葉が言うように、もう、悪魔の手の中にいる「罪人」ではないのです。今は、贖い出されて「キリスト・イエスのうちにあります。」そして、「キリストにある者が罪に定められることは決してないのです。」(ローマ8:1)キリストが私の「義」、「聖」、「贖い」となってくださったのです。よく「義認」、「聖化」、「栄化」と言う言い方をしますね。それらは、霊・魂・体の救いと関連します。これを整理することが重要です。

 

  義認:霊は「義」と認められ完成され、天上でキリストと共に座しています。

                        (エペソ2:6)

   義認とは罪の罰からの解放であり、救いです。

 

   キリストが私の「義」となってくださり、「霊」の救いは完成してい

   るので、失うことはありません。

 

  聖化:魂は「聖化」のプロセスにあります。聖霊により日々、キリストの似

   姿に変えられつつあります。(II コリント3:18)これは御霊のワ

   ザであって自分の努力で達成されるものではありません。聖化は主の

   再臨の時に完成します。(II テサロニケ5:23)

 

    聖化とは「罪の力」からの解放、救いです。

 

   この地上にいる「魂」は霊的戦いの中にいます。神が聖さに預からせ

   ようとして訓練されることもあります。(ヘブル12:10)キリス

   トが私の「聖」となり、完成してくださいます。

 

  栄化:体の贖いの事です。完成は主の再臨の時です。朽ちない体に変えられ

   ます。しかし、これは将来の出来事です。

 

    栄化とは、「罪の存在」からの解放、救いです。

 

   この贖いが完成してから入る新天新地には「呪われるものは何もない」

  (黙示22:3)のです。罪の存在がないからです。キリストが私の「贖

   い」となってくださいました。この贖いが完成される再臨の時が近づ

   いています。(ルカ21:28)

 

これらは自分の力では達成できません。だから、キリストご自身が私たちの義と聖と贖いになられました。  

 

このようにきちんと整理されて聞いたことがないと、「救い」に関して混乱してしまいます。最悪、自分は救われていないのでは?と疑ったりします。そのまま異端に引っ張られてしまうこともあります。自分も、もっと早く、この整理ができていたら助かったなと思います。しかしながら、残念な説教が多いのです。

 

キリストはすでに信者の心の中に住んでいます。(コロサイ1:27)そういった聖書的事実を確認する説教より、「もっと祈って、もっと聖書を読んでキリストの御そばに近づきましょう!」的な、旧約マインドの説教をしているとしたら残念です。新約の驚くべき霊的事実=希望が語られるよう願います。そして人を解放する「福音=グッドニュース」が語られるよう心から願います。

 

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執筆者:栗原一芳

 

 

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