2024年2月8日木曜日

自然災害は神のさばき?

 

今年は元旦から能登半島で大地震。「これは神のさばきなのか?」という疑問を呈する人が必ず出てきます。あるいは、「なぜ神はこのような悪を許されたか」、「愛なる神は何をしていたのか?」という疑問が出されます。東日本大震災の時も散々、議論されました。

 

聖書は「すべての人は罪を犯し、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)と言っています。一部の人ではなく「すべての人」が罪を犯しているのです。そして、イエス様が「すべての人の罪」を負い十字架で死んでくださった故に、呪いは取り去られ、今は「救いの時」となっています。従って、ある「特定の地域の人々」への罪の裁きとしての自然災害という解釈には無理があります。能登にいる人の方が東京の人より罪深いということは絶対に言えないのです。

 

考えてください!また、もし、これが神の裁きなら私達は、被災者を救ってはいけないことになります。裁きであるなら、苦しむのが御心なのですから。救援活動は神の裁きを邪魔することになってしまいます。しかし、当然、目の前の苦しんでいる人を助け、愛を示すのは、神の御心でしょう。この点からも「さばき説」には無理があります。

 

かつては、「さばき説」が通説だった!

しかし、18世紀までは「さばき説」が普通の解釈だったのです。1755年11月

1日、午前9時40分、M9の大地震が当時のポルトガル、リスボンで起りました。15メートルの津波が起こり、5日間町が燃えたのです。しかし、その日は、カトリックの最も大事な祭礼の日であったのです。人々は礼拝堂にきれいな格好して集っていました。プロテスタントはこれをカトリックへの裁きと考えたのです。確か、ジョン・ウエスレーもそう言っていたとか・・

 

聖学院大学教授で神学博士の藤原淳賀先生の話によると、教会は、ほとんど壊滅状態だったのに、赤線地区が無事に残ったというのです。変ですね。その頃から「さばき説」が下火になったようです。

 

逆に、啓蒙主義(enlightenment movement)の思想家たちは地震を道徳問題(ethics)と切り離して客観的に見ていました。カントは初めて地震学なるものを始めたといいます。

 

「今日は雨だから裁かれている」と考える人はいなでしょう。同じ自然のリズムがもたらす災害であっても、こと巨大地震となると、「神のさばきでは?」という思いが走ります。

 

考え方の転換

大野バプテスト教会の中澤啓介師の提言はこうです。

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西欧のキリスト教神学においては、自然災害は伝統的に「悪の問題」として扱われてきた。結局「不可解」という結論を出してお茶を濁す。それでは、これから日本が直面せざるを得ない災害に対して、何の役にも立たない。新しい解釈が必要。

 

自然災害は「悪」の問題ではなく、「自然法則」あるいは「自然のリズム」がもたらすものであり、 人間の「被造物管理権」(危機管理)の問題と提唱したい。

 

そういう考えに立てば、日本のキリスト者と教会は、自然災害を迎え撃つ準備ができる。

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・・・というものです。

 

つまり・・・

1) 地震や自然災害は「自然法則」「自然のリズム」がもたらすもの。(裁きや道徳と切り離す)

水蒸気が空に溜まれば、雲となり、やがて雨として地上に降ってくる。それは「さばき」ではなく、日常、私達が体験している「自然のリズム」である。同じように、例えば、太平洋プレートは年8cmほど日本側に動いており、100年で8mも潜り込むので、その反発で陸側のプレートが跳ね上がり、大地震が起こる。溜まったエネルギーは、そのように発散される。だから、海洋型地震には「周期」がある。これは物理的な事であり、道徳とは無関係。

 

2) 人間は被造物管理(危機管理)の責任がある。

地震そのものは止められないが、危機管理、防災をすることで減災できる。それは、人間の側の責任。 自然のリズムである限り、自然災害そのものは中立的なもの。ただ結果、悪をもたらすことがある

 

阪神淡路大震災の時、1981年前の建築物と後の建築物では被害に大きな差が出た。1981年以降の建築基準で立てられた建物は震度6強まで倒れない設計になっている。耐震性の弱い建物は、倒れて大きな被害が出た。道徳の問題ではなく、単に物理的な問題である。つまり、同じ震度の地震でも、準備の仕方で(弱いところを強くしてゆくことで)リスクを減らせる。阪神淡路大震災では、8割は家の倒壊や家の中の家具による圧死であった。逆に言えば、家を耐震化し、家具を固定していれば、その人達は助かったかもしれないということだ。備えることでリスクを減らせる。これは管理の問題であって、人間側の責任。

 

一点だけ注意しておきます。基本、これでいいのですが、この考えを固定化してしまうと、いわゆる「理神論」(神は一度、創造の御業を終えると、あとは自然の法則に任せて、もはや地上に介入することはないという理論)に陥り、神の特別介入を拒否してしまう恐れがあります。実際、神はこの歴史に介入されています。ノアの時代、地上の悪を裁くため、「大洪水」を起こされました。性的に乱れた町、ソドムへの裁きとして天から火と硫黄を降らせ町を滅ぼしました。モーセに逆らったコラは地震による地の裂け目に落ちてさばかれ死にました。終末期の患難時代には、神の「さばき」として、多くの地震また、巨大な雹など、多くの自然災害が起こります。だから、「自然災害=さばき」ではないが、「さばき」としての自然災害はあるのです。この7年間の患難時代は特別な期間と考えたほうがいいでしょう。

 

被造物管理者としての人間

もともと人は神の似姿に造られたのです。そして、エデンの園を「管理」するように命令されました。そうする能力が与えられているからです。動物に名前を付けたことは、管理能力の一つの現れでしょう。人は神に背いて園を追い出されました。神の救いのご計画の中で、時至って救い主キリストが来られ、購いの業が為され、人間の被造物管理権は回復されたのです。私達は長兄であるキリストと共に、今の地を、そしてやがて相続する「地上の御国」を統治し、管理する責任があるのです。

 

内閣府中央防災会議の南海トラフ地震被害予測によると、「M9、最悪で死者32万人、7割が津波被害。」とありますが、同時に、「対策、避難で6万人に減」とも書いてあります。実際、南海トラフ地震は、「国難」とも言うべき大災害です。人間が地震そのものを止めることはできません。しかし、対策を取る事で大幅に死傷者を減らす事は出来るのです。死者32万人が6万人になるのです。ここに防災活動の意味があります。

 

クリスチャンにとって危機管理は、単に防災すれば減災できるという消防署の人が言う以上の意味があるのです。それは、人間の被造物管理権の問題なのです。神のかたちに造られた人間の責任です。特に「災害関連死」は完全に「人災」です。今回の能登の避難所で東日本大震災の時と同じ「問題」(特にトイレ問題)が起こっているのを見るともどかしい思いがします。あれだけ避難所の問題が論じられていたのに、何も変わっていません。災害国日本にあって、(災害に)無防備で無装備な小中学校を避難所にしたままでいいのでしょうか?

 

神のパートナーとして

私達クリスチャンは地上での神の代理者、王の見習い人です。この地上を癒し、回復し、守るため、神とパートナーとして一緒に働くものです。神の側に一緒にいるのです。「神様どうして?」と文句を言っている暇があったら、神と一緒に「支援」や「復興」に携わってゆくべきではないでしょうか?神は癒しと回復の神なのですから。そして現実、目の前に助けを必要としている人がいるのですから。

 

信仰生活とは、単に、日曜朝のプログラムに出席することではありません。Worship service to service as worship. ただ礼拝という儀式に出ることより、週日奉仕する事が、神を礼拝することになるべきです。24時間、7日間、創造主をあがめ、意識し行動します。主は日曜日だけの主ではありません。「365日の主」です。

 

危機は「危」danger と「機」Opportunityとから成っています。被災地で支援活動をしたり、今後の来るべき災害に地域と共に備える防災活動は、クリスチャンがコミュニティと繋がり、「証」できる良き機会となります。

 

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

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