2013年6月22日土曜日

「ノンバーバル伝道」



 一体何だこりゃ?と思われる方もいらっしゃるでしょう。でも以下のことを見ると、なるほどと納得してくださると思います。アメリカの心理学者 アルバート・マレービアン博士によると、人間のコミュニケーションの大部分は言葉以外で為されているというのです。

顔の表情 55%
声の質(高低)大きさ、テンポ 38%
話す言葉の内容 7%

そう、言葉で伝わるのは7%だけ。考えてみてください。「面白いですよ」とつまらなそうな顔で言えば、つまらないということです。逆に女の子が「もうあんたなんか嫌い」と潤んだ瞳で言えば、「好き」ということですよね。実は言葉はあまり頼りになりません。目は口ほどにモノを言うは本当で、喋らなくても好意や敵意は伝わります。その人の醸し出す雰囲気みたいなものもありますね。パントマイム(無言劇)を見ると、表情と体の動きだけで、あそこまで表現できるとはと感動します。

こういう言語以外のコミュニケーションをノンバーバルコミュニケーションといいます。よく私も無言で12歳の息子の肩を抱きます。これで「お前のことを愛してるよ」は伝わります。さて、伝道に関してはどうでしょう?

3:11東日本大震災を越えて、牧師や宣教師から「私達はことばによる伝道に頼りすぎていた」とう言葉をよく聞きました。今まではどちらかと言うと、私達は福音の内容を伝えさえすればいい。後は神様とその人の責任だとばかりに言葉による伝道を重視していました。こんな話を聞きました。在る中小企業で働いているクリスチャンのOLが教会の活動に忙しく、会社の人々との付き合いもない状態の中、教会の伝道会が近づいたので、社長さんのところにチラシを持って行き、是非来てくださいと言ったのです。しかし、社長さんは普段のそのOLの姿を見ていて、「こういう時だけ、誘われてもねえ」と言ったそうです。会社の人への愛が伝わってないまま、伝道会に誘ったのでシラケでしまったのでしょう。

恥ずかしい話ですが、実際、私も公園などであまり興味なさそうな人にも、ほとんど無理矢理「4つの法則」を読んで伝道したこともありました。伝えなければという使命感はあったのですが相手の気持ちを理解しての会話のキャッチボールが無かったのです。最近、違うアプローチをしてみました。代々木公園でオジサンに話しかけ、フツーの話を30分くらいしました。以前ならば3分くらいでイントロは切り上げて、すぐに伝道冊子を取り出し伝道し始めました。今回は、会話のキャッチボールをやってみました。自分もリラックスできたし、相手も親しげにいろいろ話してくれました。そこから自然に、キリスト教や仏教、果ては死や復活の話まで展開しました。相手の事も沢山聞きました。何より伝道してやろうという気負いが無かったので相手もそれを感じてリラックスしてくれたのだと思います。

高校生の時、クリスチャンになって行き始めた教会の牧師婦人が帰り際、無言でいつもニコニコして送り出してくれたのを今でも覚えています。自分の存在を喜んでくれているのがわかり嬉しかったです。

私達は日々、ノンクリスチャンの方々の中で生活しながら、どういう味を出しているのでしょうか?いい映画はカメラワークでコミュニケートします。ダサイ映画は役者のセリフで全部言ってしまいます。そこは何も言わないで去ったほうがグッとくるのなあ・・そういうのあるでしょう。沢山の言葉より、何気ないしぐさに愛が伝わることもあります。被災地の仮設住宅では、言葉で激しく伝道しようとしたグループは追い出されてしまいました。しかし、ひたすら仕えていたクリスチャンボランティアは信頼を得て、感謝されました。長期戦なのです。教会が市民権を得るには、社会のために貢献してくれている姿が「見えて」くる必要があるのではないでしょうか? 

このブログで以前、「良きわざ宣証体」の記事を載せました。私は、自分の住んでいる東久留米で防災のための教会のネットワークを構築しています。また、地域の自主防災訓練などにも参加し、コミュニティリーダーの方々と顔を合わせるようにしています。今度、東久留米市の社会福祉協議会のリーダーの方々とお会いします。震災前に防災ボランティアを社協と協力してできないか提案するためです。そして、この地域の教会防災ネットワークからボランティアを募集する予定です。そうすると教会と市の福祉行政が繋がります。そうやって震災前から高齢者や障害者の方々の家の防災をお手伝いできれば、大きな証となります。ノンバーバル伝道ですよね。

神の愛を伝えるのは、言葉によるだけではありません。いや、言葉だけでは伝わらないのではないでしょうか?言葉は溢れているので、時に、<愛してる>という言葉はチープに聞こえてしまいます。それより、1つの親切、微笑みが多くを語ることがあります。伝道イベントでも、メッセージ以上に、そこにいる人々の雰囲気や音楽、美的センスが大きくモノを言ってしまいます。あなたの93%のコミュニケーション能力を使って始めませんか、ノンバーバル伝道。
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asktmc@gmail.com(栗原)

2013年6月8日土曜日

「心とからだ」


最近の新書の売れはダイエット、健康本だそうだ。つまりはカラダの本。「人はパンのみにて生くるにあらず。」は誤解されている聖書の箇所の1つで、決してパンがいらないと言っている訳ではない。新約の神学がギリシア哲学の影響で肉体軽視のほうに傾いたが、元来、旧約聖書には肉体軽視の思想はないし、禁欲思想もない。「雅歌」を読めば一目瞭然だ。だいいち、体を造ったのは創造主である神なのだ。日本にキリスト教が入った時もピューリタンの影響が強く、禁欲、肉体軽視の部分があったようだ。霊的なクリスチャンはこの世のこと、肉体的なことにはあたかも関心がないといったような。しかし、神が造った肉体ならば大事にケアする必要があるし、大事に葬る必要もある。(アブラハムは大金を払って妻サライのためにそうした。)主が聖餐を命じられた事は興味深い。パンを取り「これはわたしのからだ」と言い、ぶどう酒を取り「これはわたしの血である」と言った。それを弟子達に分け与え、弟子は食し、飲んだ。これ以上tangibleな表現があろうか?神が肉体に関心ないなら、これはあり得ない。食べる、飲むという最も肉体的な行動を通して霊的な真理をリマインドしようとしたのだ。

さて、現代のクリスチャンはどれほど肉体のケアを重んじているだろう。先ずは姿勢。西洋人はさっそうと歩くのに、日本人は肩を狭めてちょこちょこ歩いている印象がありませんか?先日、駅地下道で2人の日本人らしき男女が話し合っているのを遠くから見て、立ち方で日系アメリカ人だなとわかりました。案の定近くに寄って会話を聞くと英語でした。それほど立ち方が違うのです。アメリカ人は胸を張って大股で堂々と歩きます。自己主張もよくします。歩いていても頭があまり動きません。声も大きくよく通ります。体の構造もあるんでしょうが、姿勢もあると思います。アジアの人は猫背の人が多い様です。日本人は何となく自信なさそうな、申し訳なさそうな「姿勢」をしています。自己主張もあまりしないし、「仕方が無い」という解決をしてしまう傾向があります。そして、日本人はパソコンを使うようになって、ますます猫背になってきました。猫背になると胸郭が狭まり、呼吸が浅く、短くなりキレやすくなる。

神の息吹きを吹き込まれて生きるものになった人間。肉体の塊だけでは生きていません。息が大事なのです。息している間中、人は生きるのです。そして、「息を引き取って」死にます。ヘブル語やギリシア語では霊と息、空気は同じ言葉が使われています。正しく呼吸をすることは非常に霊的な事なのです。神は鼻に息を吹き込まれましたが、正しい呼吸と言われる腹式呼吸では鼻から息を吸い、空気をお腹深くに入れ、口から吐き出すのです。そうすると脳にも体中にも酸素が行き渡る。心も落ち着く。そう心と体は関係しているのです。心の問題を「霊的」な問題としてとらえ、カウンセリングや、「薬」で癒そうとする傾向があります。しかし、多くは背筋を伸ばして正しく立ち、正しく歩き、正しく呼吸することでかなりの改善ができるのではないかと思います。といいますか、どれくらい体の指導をしているのでしょうか。パントマイムで悲しい肩を落とした姿、よろこびを体で表している姿を想像してください。心が体で表現されますよね。同時に体が心をコントロールすることもあるのです。バカにしないでラジオ体操をすれば、心はすっきりします。ずっとパソコンの前でじっとしていれば、血行も悪くなり、鬱的になります。「人は歩かないと病気になる」とうフレーズをある時、本で読んで、これを心がけています。真実だと思います。

人間の体は動くようにできているので、長時間動かないとエコノミー症候群になり、やがては生活不活発病になります。これは被災地の仮設住宅で高齢者を中心に起りました。じっとしていると体が硬直します。リラックスするには手や足、体を振ったり、捻ったりすることが必要です。ダンスなんかは非常にいい訳です。深呼吸するだけで、血圧が下がります。ふくらはぎは第二の心臓と言います。休憩時間にはスクワットなどやって血流を良くしましょう。セミナーなどで缶詰になるときは、私は出来るだけ休憩時間には外に出て歩くようにしています。聞き逃したくない午後のセミナーの時、ランチはサンドイッチ程度の軽食にすると午後眠くなりません。これは霊や心でがんばる話ではなく、単純にお腹にモノを入れ過ぎないという肉体の問題なのです。

「身体能力を高める 和の所作」(安田登著 ちくま文庫)は能楽師が書いた姿勢や呼吸の本で有益です。能楽師は70歳、80歳で舞台に長時間舞台に立ち演技をし、時に垂直跳びをするといいます。(高齢の役者が垂直跳びしている写真は圧倒されました。)それができるのは彼らが正しく立って、正しく歩き、正しく呼吸しているからです。また、能楽での発声は普段、日本人が話している発声と違います。よく日本のポップ歌手が喉で唱っていますが、能の腹から出る声は全く違う質の声です。すり足のような微妙な動きをすることで、普段鍛えられない内部の筋肉(体の芯)を鍛え強める事ができるといいます。

天では御霊のからだをもらうとあります。死んで、霊が肉体を離れるのは一時的な現象であって、人間は霊と体の一体化した存在なのです。(Iコリ15:39−44)

ともあれ、背筋を伸ばして、アゴをもう2センチ引いて歩いてみてください。
気持ちも変わるし、なんか見える世界が変わりますよ。
asktmc@gmail.com (栗原)

2013年5月27日月曜日

「宣教」から「宣証」へ



 去る、5月11日に日本ローザンヌ委員会シンポジウムが開かれた。テーマは「他の信仰を持つ人々の中でキリストの愛を生きる」—東日本大震災からの教訓を踏まえてーであった。今回は、大変意味深い、刺激的な内容であったので、ここに紹介させて頂くとこにする。シンポジウムには3名のパネリストが立った。トップバッターは南三陸を支えるキリスト者ネットワーク世話人で、基督聖協団牧師の中澤竜生氏。

関西生まれの中澤氏が東北に遣わされて、現地で聞いた言葉は「3年住んでから、そういうこと(伝道)をしてくれ」であった。被災地に来たクリスチャンボランティアが「祈っていいですか」と聞いた時、「膝を交えて話した事の無い人に祈って欲しくない」と言われたという。それで、中澤さんは、「自分は祭りや弔いなどで、地域にかかわっているだろうか?」と思わされた。ねぶた祭があると、企業ごとに参加する土地柄。礼拝者の数ががたんと減るという。その人の土台である宗教を否定することから始めたら関係が築けない。否定ではなく、その人を受け入れる事から始める。イエスの愛をできるだけ外に表すことをし始めた。駆け引き無しに、ノンクリスチャンと共に歩むことを始めたという。今では、人間関係、信頼関係によって変革が起ると確信している。私達がまず、福音に生きることで福音を提示したいという。

次に話したのはイザヤ58ネット代表で福音伝道教団牧師の鈴木真さん。今までの西洋式の宣教を批判しつつ、「個人と神との関係だけで見る視点が、この世を断罪的に見て、逆に教会はいつも地域コミュニティにとけ込まないまま、家出人集団のようになっていくことに注意が必要。」と言う。地域に浸透する教会の形成のための「パラダイム転換」が鍵になるという。東北では先祖代々「講」というローカルコミュニティがあり、冠婚葬祭人生のすべてが「講」に組み込まれている。そこから抜ければ村八分的扱いになる。果たして、そうやって教会に個人を引っこ抜いてきて新しい教会コミュニティを作る事が効果的なのかという疑問にぶち当たった。教会が人々を呼び込み、囲い込むのではなく、地域の中に出てゆくことが必要なのではないか。「よき業を通して文化への浸透を図る福音提示が必要なのではないか。クリスチャンの社会貢献が必要なのではないか。そうでなければいつまでたっても「よそ者の宗教」、「西洋の宗教」という見られ方は変わらないだろうと。教会が市民権を得る。西洋と違って、日本ではそこからではないか。

最後のプレゼンターはVIPインターナショナルの市村和夫さん。コミュニティと繋がるため、聖書で禁じてないことは何でもやってみるという積極的な姿勢が印象的。神社で行われているラジオ体操にも参加するという。ノンクリスチャンと積極的に関係を作っている。関係なくして、良きニュースも聞いてくれない。仏教徒の中にも聖書に関心ある人達がいるという。(大乗仏教や神道は聖書の影響があるので)また、市村さんはインサイダームーブメントについて分かち合った。これは、イスラム圏でイスラム文化に留まりつつイエスを礼拝する、仏教圏で僧侶のまま、ハレルヤと礼拝する、ヒンズーがカーストに留まりつつイエスを礼拝する運動である。今までは、信仰持った「閉じられた国」のクリスチャンはアメリカなど自由圏に移り住んで信仰を保った。しかし、それでは周りに影響を与えられない。日本でも創価学会に留まりつつ主イエスを証している人のケースも話された。確かに学生でも、部活をやめてクリスチャンクラブに入ったりする。そうするとクリスチャンに囲まれて気持ちはいいが、ノンクリスチャンとの接点を失ってゆくことになる。このムーブメントは世界に広がっているが、シンクレティズム(混合宗教)などの危険性もあり、クリスチャンの間の評価は定まっていない。

ともあれ、刺激的な内容で面白かった。前回の記事に書いた3:11のメッセージを被災地以外の教会はどう受け取っているのだろうか?どう変革を始めているのだろうか?いずれにしても、東京でこのようなセミナーが開かれたことには大きな意義があると感じている。以下、最後に東北で立ち上がった「宣証」の動きを紹介しよう。
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東日本大震災の被災地から、支援と宣教を一体のものとして福音に基づく良き業を実践し、神の救いの計画を実現する「宣証」に取り組もうと、「良き業、宣証共同体プロジェクト21」が立ち上がった。良き業に基づき貢献する活動を通じて、「生き方」に関する問いかけが起こり、「宣証」の実を結ぶことを願っているという。具体的には「宣証」のための次世代リーダーを育てる研修・訓練をし、地域・町の復興に寄与・貢献する共同体を建て上げるためにボランティア・宣教チームを派遣できる体制を整えてゆく。

これが3:11を超えて東北で起っている動きなのだ。2011年3月に8000の教会を対象に調査したクリスチャンデータブックの報告によるとプロテスタントの教は・・・

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日本の人口:127057860人
教会数:7981
平均礼拝数:40人 (1教会あたりの平均信徒数は63名)
推定信徒総数:507714人 (国民の0.4%)
一昨年と比較して教会の数は16教会減。
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依然として厳しい状況である。なぜ、そうなのか?いろいろ理由はあるだろうが、教会が地域コミュニティから孤立しているということが挙げられないだろうか?昨年の夏、筆者が東京の22の教会の防災準備状況を調査した結果、6割の教会が地域コミュニティとの関係を持っていないことが明らかになった。町に掲載されている地域防災マップには神社仏閣のマークはあっても教会のマークはない。少なくも防災に関して行政側からはカウントされていないのである。教会の地域での存在感が薄いのである。それは裏を返せば地域にインパクトを及ぼしていないということになる。特に都心の教会では日曜の朝に電車にのって集まって来て礼拝し、また解散してゆく。そこで礼拝していても週日そのエリアにいないことが多い。大震災の時は礼拝をしている場所より、自分が通常多くの時間を過ごしている場所、すなわち会社や住居のある地域コミュニティとの関係が大事になる。もう少し普段いるエリアでのクリスチャン同士の連携や周りの人々との連携を強められないか?

東北では震災後、地域との繋がりが強まった。3:11があって、今度、首都圏直下や南海トラフという話なので、震災後では遅すぎる。今から防災というすべての人にとって関心のある分野で共に取り組み、町ぐるみの防災に教会が加担するという型ができないか?都心部では大混乱になるので、クリスチャンが主導権を取って、備えや連携を推進できないか?南海トラフや首都直下は国の存亡にかかわる「国難」となる。この時代のニーズを共に担うことがクリスチャンの今の使命なのではないだろうか?

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asktmc@gmail.com (栗原)

同著者による、東京大震災ブログはこちら
www.tokyodisaster.blogspot.jp

2013年5月13日月曜日

「この地を治めるクリスチャン」



 最近タイで行われたBusiness as Mission (BAM)のGlobal BAM congressに参加したビジネスマンクリスチャンから報告を聞いた。カンファレンスではよく「Creation care」というフレーズが聞かれたという。神はアダムとエバにエデンの園を耕し(develop)、治めるよう命じられた。人間は神の作られた世界を管理する役目がある。地球温暖化の問題、生物多様性の問題、再生エネルギーの問題。すべてクリスチャンに関係あるのだ。

当然、王として地を治めることには危機管理も含まれる。地震そのものは止められないが、危機管理、防災をすることで減災できる。それは、人間の側の責任。 自然のリズムである限り、自然現象そのものは中立的なもの。ただ人が多く住んでいるところには結果、悪をもたらす。しかし、その悪(被害)の程度は、人間の側の脆弱性による。

例えば、阪神淡路大震災の時、1981年前の建築物と後の建築物では被害に大きな差が出た。現在の建築基準で立てられた建物は震度6強まで倒れない設計になっている。以前なら倒れて大きな被害が出たが、同じ震度の地震でも、耐震設計の建物の被害は軽微で済む。こうやって被害の違いが出るものを神の裁きと言えるだろうか?実は、人間の責任でリスクを減らせる部分が多い。阪神淡路の際、8割は家の倒壊や家の中の家具による圧死であった。しかし、家を耐震化し、家具を固定していれば、その人達は助かったかもしれない。備えることでリスクを減らせる。8月31日、内閣府中央防災会議が南海トラフ地震被害予測の見直しを正式発表した。東京新聞では「M9、最悪で死者32万人、7割が津波被害。」950万人の避難民。国民の6割が被災者になるという。まさに国難。しかし、その後に「対策、避難で6万人に減」と報じられた。

人間が地震そのものを止めることはできない。しかし、対策を取る事で大幅に死傷者を減らす事は出来るのだ。死者32万人が6万人になるのだ。防災することで減災できる。それは、人間の被造物管理権の問題なのだ。言い換えれば神のかたちに造られた人間の責任である。自然現象が悪をもたらすなら、私達クリスチャンは神の側に立ち、神チームとして悪を少しでも減らすよう努めるべきではないか?


聖書では「管理」ということを重視している。今、そして後に来る世で管理することが必要ないなら、ミナの話(ルカ19:15−23)意味をなさないように思われる。むしろこの箇所は、今から管理能力が問われ、その管理能力に従い、町の管理が任されるという将来の訓練的ニュアンスが高い。


後に来る世は誰のもの?
ヘブル2:6からを見ると、後に来る御国の管理権を天使には渡さないとある。それでは誰に渡すのか?文面文字通りには「人間」とある。しかし、現実、すべてのものが人間に(まだ)従わされてないとある。しかし、御使いよりもしばらくの間、低いものとされたイエスのことは見ていますと。人間に従わせられているのを見てない、でもイエス様のことは見ている。ニュアンスは最終的に人間も・・ということではないか?実際、11節には神と私達は同じ側、同じ神様チームのメンバーというメッセージが受け取れる。


私達はキリストとの共同相続人
さらに、ローマ 8:15-­17読んでみると、相続権のある子供について書いてある。聖書はクリスチャンになる前の人間の姿を「奴隷」と描写している。(ヘブル 2:15) 奴隷と「子たち」とは何が違うのか。子どもには相続権があるが、奴隷にはない、ということだ。しかし、私達は、「神の相続人であり、キリストとの共同相続人」。私達はキリストと一緒に相続するのだ。一体何を相続するのか?神の造られた世界ではないか。父の創られた世界、つまり被造物の相続権の話なのだ。造られた世界を受け継ぎ、その統治権をキリストと共に受け継ぐということ。父の御国を長兄であるキリストと共に共同相続人となる。又、当然、相続するということは管理も任されるということだ。


私達は王の見習い人
さらに、エペソ2:5−6を見ると、「罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かし、・・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」とある。まず、キリストだが、キリストに続いて、キリストと一緒にプロセスを経ている。一緒に死に、一緒によみがえり、一緒に天のところに座っている。天のところとは、その前の章エペ1:20に書いてある。「キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」その所に私達もキリストと共に座している。(未来系ではなく、完了型で書かれている、すなわち今現在霊的に居るところ)いわば、キリストの隣にすわっている「王」見習い人。


良い王ならば自分の国民をすべての災いから守る。当然、危機管理が入ってくる。実は、日本には沢山の危機がある。自然災害リスク 世界ワースト5の国。国土の7割は山、しかも降雨量は世界第4位で世界平均の2倍もある。それに、2000もある断層。近いうちに起る南海トラフ、首都直下型地震。さらに政治的には、センカク問題、北朝鮮、サイバーテロ、核テロ。またパンデミック、長期的には少子化人口問題、国家的財政赤字(1000兆)問題。 今まではクリスチャンは霊のことだけ、教会で祈ってればいい的な、伝道して魂救われればそれでいい的な、そういう態度ではなかったか。でも全世界は神のガーデン。クリスチャンはこの地を治める責任がある。無関心ではいられない。

3:11を通して、被災地の教会は文字通り揺さぶられ、それを通して沢山神様から教えられた。3:11は神の裁きではないが、神のメッセージとして受け取れる。揺さぶられ、目が開かれ、新しい価値に気ずかされる。町作りも現状復帰の「復旧」ではなく、新しい価値と思想による「復興」が大事と言われている。昔あったように戻ればいいのではない。教会も今までのような「教会」「宣教」でいいのか。震災を通して教会論、宣教論が根本から問い直された。仙台の神学校の校長は「パラダイムシフトが必要」とまで言っている。自分達の教会の成長という狭い視野から、地域社会の人と一緒に問題を背負い、一緒に生きてゆくという姿勢に変えられてきている。さて、東京の教会はそのシフトの必要をどこまで感じているだろうか。

今こそ、日本のクリスチャンがInitiativeをとって地元のコミュニティとかかわり、町ぐるみで、次期災害の備えをしてゆくことが期待されているのではないだろうか。危機はDanger とOpportunity。来るべき災害に一緒に備えることは、クリスチャンがコミュニティと繋がり、影響を与えられるいい機会。今がその時なのではないだろうか。            

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asktmc@gmail.com (栗原)

2013年4月27日土曜日

「メディア・テロの脅威とコミュニティ」



 最近、ツイッターで「オバマ大統領が爆破で怪我をした。」というデマが飛んで、2分間で140ドル、株が下がったそうです。1個人の発信が世界に影響を与えてしまう時代なんですね。また、サイバーテロという新しい形態の犯罪も増えてきています。犯人が特定しにくく、しかも標的型の攻撃が増えているのです。サイバーテロの一番の標的は防衛関係ではなく、実はエネルギー関係だそうです。約9割はエネルギーをねらったものです。町はスマートシティ構想でライフラインをインターネットで一括管理へと向かっているので、サイバーテロで町のライフラインがストップするという事態が考えられるのです。かつて地下鉄サリン事件や秋葉原事件を防げず、体験してしまった東京では、今後、サイバーテロや核テロが起らない保証はありません。それが宗教的信念によることもあるだろうし、まったく個人的な社会への恨みから起る事もある。こうしている今もカルト集団や個人が計画を練っている可能性もあるのです。

先日、北朝鮮のミサイル脅威の中、韓国に出張しました。その際、友人の韓国人クリスチャンに最近の教会の成長について聞いてみました。あまり芳しくないようです。理由は、キリスト教に反対するメディアの影響が大きいというのです。確かに、メガチャーチの不明朗会計や継承者の世襲問題など火種はあるのですが、それがツイッターなどで広まり、一般のメディアも書き立てるので、結果として、キリスト教会全体への不信を煽り、ネガティブなムードを作ってしまうというのです。

今日、悪意を持った人が、あるいは傷を負った人が自分を傷つけた(それが単なる思い込みであっても)教会や団体を潰すために故意にソーシャルメディアを使って悪い噂を流す事は、いとも簡単にできてしまうのです。それは個人間の問題に留まらず、すぐに世界にまで広がり影響を与えてしまいます。人から人への感染する鳥インフルエンザが世界的流行(パンデミック)となるように、悪いニュースもあっという間に広がってしまうのです。しかも、ツイッターの短い文章では説明も十分できません。短い明確なメッセージを出してしまった方が勝ちとなる可能性があります。ゆっくり正論を説明している間に噂はあっいう間に広がってしまう。今回、選挙でもインターネットやソーシャルメディアが解禁となり、政治家が自分のメッセージを気軽に発信できる便利さはあるものの、ツイッター炎上など負の影響も又、大きいことを知るべきでしょう。

新しい時代の脅威に教会も備える必要があるのではないでしょうか?教会に悪意を持つ人はソーシャルメディアを使って攻撃してくる時代なのです。もちろん罪が事実なら、罪を隠し通せないといういい面もあるでしょう。しかし、事実無根の噂が広められることも又、可能なのです。江戸時代、キリシタンは怖いもの、信じてはいけないものというイメージが植えられていったのです。田舎ではまだ、その後遺症があるようです。事実よりイメージが先行してしまうのです。今では、そのイメージ作りが簡単にできてしまうのです。ともあれ、今後、牧師、宣教師、教会員にどんなことが起るかわかりません。誘拐拉致事件の場合、犯人とのネゴシエーションを妨げないため、あるいは教職者の道徳問題などにつき教会員やクリスチャンの友達が勝手に余計なことを書き込まないように注意する必要も出てくるでしょう。危機は地震だけではないので、新しい時代のいろいろな危機に対する危機管理の必要が出て来ているようです。

それにしても、だからこそ、顔と顔を合わせての信頼の置ける関係、自分を理解し、味方になってくれる人達のコミュニティが大事になってくるのではないでしょうか。ウソが流布してしまった時「いや、あの人はそういう事はしない。」と一緒に立ってくれる人がいなければ、その勢いに押し倒されてしまうでしょう。真実よりも「ワンフレーズ勝ち」となってしまうことは怖い事です。インターネット教会の善し悪しの議論もありますがメッセージを聞くツールとしてはいいでしょうが、エクレシア(少人数で定期的に顔を合わせ、分かち合える関係)の代替にはならないのです。信頼はじっくり築かれる。ワンフレーズ、ワンクリックの時代だからこそ、時間のかかるコミュニティ作りの重要性が浮かび上がってくるのです。

さて、テロは人災であり、人災には人的要素、すなわち背後に犯行理由や動機があるのです。アメリカの殺人犯罪は圧倒的に「若い男性」によって起こされています。しかも、父親を知らない若い男性による犯罪が多いというのです。以下、アメリカ滞在の友人の牧師から送られて来た資料です。
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実際、全米で最も殺人の多いシカゴを例にとると、貧困地域に於ける若い黒人たちの80%は非嫡出子であり、父親を知らずに育ちます。統計を見るならば父親不在の問題は火を見るより明らかです。父親不在の家庭で成長した若い男性が刑務所に入る率は両親がいる家庭に比べ、二倍です。自死を選ぶ若者の63%、問題行動を起こす子供の85%、高校を卒業しない子供の71%、少年院に入る子供の70%は皆、父親不在の家庭で育っています。さらに向学心のなさ、性行動の低年齢化、性同一性障害、麻薬の常用、衝動的怒り等の問題どれ一つとっても父親不在と明確な関連があります。また父親不在の空白を埋めるようにしてギャングの親分や、過激な思想を植え付ける宗教指導者、大学教授が暗躍するわけです。父親不在が社会にもたらす影響については現在多くの研究がなされており、その全てが現代アメリカの社会問題は全て「父親不在」と連動していると結論づけています。

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あのボストンマラソンテロの犯人もロシアからの移民でアメリカ生活になじめなかった若者のようです。秋葉原事件の犯人も「孤独」という背景が浮かび上がってきます。「孤独は罪を呼ぶ」という言葉もあります。自分を拒絶した「社会」への憎しみが無差別大量殺人へと駆り立てます。彼らがスモールグループのコミュニティに繋がっていたならと思います。愛し、愛されるコミュニティを作ることは、社会の犯罪を減らすことに貢献することにもなるのです。東京砂漠に沢山の絆、すなわち顔と顔を定期的に会わせられるコミュニティを築いていくことに使命を感じています。25年すると、男性の三分の一、女性の四分の一は、一人暮らしになるというのです。無縁社会と言われる中で、コミュニティ形成が大事になりますね。
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asktmc@gmail.com (栗原)


2013年4月13日土曜日

「きずな」



 3:11以来、「絆」「コミュニティ」がキーワードになっています。あの震災後、結婚する人が増えたというのです。大事な人と一緒にいたい。そういうことなんでしょうね。大震災が起れば、愛する者達との別れに直面しなければならないかも知れません。その時、後悔しないように「今」大切な人達との時間を「大切」にしたいものです。

先日、マンションコミュニティ研究会の月例会に参加してきました。これは、関係が希薄なマンションで、どう関係作りを進め、コミュニティ形成を進めたらいいかを研究している会です。マンション管理士やマンション理事などを中心に東京の各地から月島に集まってきています。「ちょっとの勇気で声をかけることから親しい関係になった。」という証もありました。クリスチャンの集まりではありませんが、「結局、管理人さんや、周りの人に感謝することです。」と聖書的なメッセージで締めくくられました。スピーカーの一人で知り合いの牧師は同じマンションのフロアの人にホームパーティの案内を送ると、初回に4家族、次に8家族と増えていったというのです。そして「声をかけてくださりありがとう」とそんな呼びかけを待っていた人もました。震災の時にはマンションに一人住まいの人は家具の下敷きになって動けなくなっていても、外からはわからないし、声も届かない場合もある。「あの人どうしてる?」と言ってもらえる関係を作っておく事が大事ではないでしょうか。特に男性は引きもりがちなので、要注意。これが、仮設住宅でも問題になっています。先日、VIP池袋(クリスチャンビジネスマンの集まり)で防災セミナーをさせて頂きましたが、今年のテーマは「絆」だそうです。それで次期震災においても、今から「絆」作りが大事であることを語らせていただきました。

私達は5−6名銀座で毎週集い、オーガニックチャーチを試みています。少人数のスモールグループで生活のstruggleを正直に分かち合います。一人では切り抜けられない危機を祈りの仲間が支ます。そうやって今までも、多くの祈りの答えを見てきました。確かに主は生きておられ、働いておられるのです。それを至近距離で見る事ができるのは幸いです。あえてハウスチャーチという言葉を使っていないのは、大事なのはハウスという「場所」ではなく、「人」であり、生きたキリストの体にフォーカスしたいからなのです。例え、家で集まっていても一方的な牧師の説教で終わってしまう事もあり得えますから。大事なのは「お互い」という双方向のコミュニケーション。そして、その真ん中にイエスがおられる。もちろん、銀座で集うだけでなく、メールのやり取りやフェイスブックでの分ち合い、たまには週末の交わりもあります。それは自然発生的に起るのです。型にはまった「集会」「礼拝」より、正にオーガニックな有機的な関係。神に対しても、人に対しても、オーガニックな結びつきが大事です。先日、ある集会で証を頼まれ「私は何度も東京都内を歩き回って祈りました。」と話しました。集会後、ある婦人が「歩きながら祈るんですか?」と質問してきました。そこで私は「はい、歩きながらでも、電車の中でも、どこでも祈ります。」と答えました。祈りは神との会話なのだから「祈りの時間に、祈りの姿勢で」とは限らないでしょう。形式より、オーガニックな関係。そのほうが神との絆が深くなります。そして人に対しても、神に対しても自分が話すより、聞く事にフォーカスすると絆が深くなります。一方的に沢山喋る人は、実は他人との絆を築いていない場合が多いのです。オーガニックな命ある関係になるには、双方向に流れないといけないのです。神との会話の中で「私のことをどう思っていますか?」と聞くと、「おまえは、わたしの愛する子、おまえを喜ぶ。」と答えてくださいます。そういう双方向性です。知人の牧師は言いました。「礼拝はイエス様にギュッと抱きしめられること。」いいですね。私達も、またイエス様にギュッと抱きつくことができるのです。

信頼や絆が無いと、その人の事を思って言っていることでも反発します。これは親子の関係でも、神様との関係でも起ります。オーガニックは自然体なのです。生きているのです。オーガニック野菜は健康で栄養たっぷり、美味しいのです。教会もそうです。日曜日だけのいい顔ではダメです。自然体でないと、そして、イエス様に有機的に繋がってないと「実」を結ばないし、「絆」は作れないのです。
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asktmc@gmail.com (栗原)

2013年3月31日日曜日

「遊び」を神学する



 ニューヨークにはセントラルパークがあり、東京には日比谷公園や代々木公園がある。一見、非生産で土地を無駄にしているように思える。しかし、都会だからこそ、この「遊び」スペースが必要なのだ。さらに興味深いのは美術館。人々はこの非日常空間で、立ち止まり、作品を見、自分を顧みる。静けさの中で、霊的な体験さえする。ある意味の礼拝堂なのだ。

「新しいものを展示し、その意味を問いかける実験室、記憶の消滅に対抗するための作品の収集保管(記憶の保管庫)であると同時に、美術館は、非物質的なもの精神的なものとの出会いの場所として、宗教的な礼拝の場所に比較されることが多い。」(「キュレーション」 長谷川祐子 集英社新書)

都会人にとって、日常生活から逸脱する「他なる場」が必要なのだ。かといって全くのユートピアに行く訳にはいかない。そこで美術館や公園、図書館の存在がある。確かに、静かな図書館に座っていると礼拝堂にいるのと同じような気持ちの安らぎを感じ得る。

「美術館は非日常的な空間である。我々は予測可能な日常空間だけでは息が詰まってしまう。予測不可能で非日常的な要素が都市の中には必要で、例えば都市の中に流れている水としての川が、その例である。」(同書p.80)

佃や、豊洲といった水のあるところにいくとワクワクするのは私だけだろうか?私の知人の芸術家は多摩川にスピリチュアルなものを感じるとして、多摩川の絵をよく描いていた。現代人は宗教性を失ったのではない。非日常世界やスピリデュアルな渇きを失ったのではない。ただ、礼拝堂に行く代わりに例えば「映画館」にいって非日常を体験し、魂をリフレッシュし、時に人生を変えるメッセージを受け取っているのだ。これはトーマス・ルックマンが「Invisible Religion 」の中ですでに指摘している。現代でも魂の癒しや高揚は必要なのであって、ただ、現代的なツールにsubstituteしているのだ。いずれにしても会社や学校といった日常空間とは違う「場」で魂の癒しや高揚、すなわちスピリチュアルな体験をしている。それは「遊びの空間」と言ってもいい。

前に紹介した「わが故郷、天にあらず」の中で、ポール・マーシャルは「遊びはクリスチャンにとって最も崇高な召しの1つだ。」と断言している。「私達の生活の多くの時間は、何かを生産したり変えたりすることに使われているが、遊びはそうではない。単純にこの世界でくつろぎ、神との平和を楽しんでいるのだ。」(p.118) さらに「遊びとは理由もなく、することだ。遊びは遊び以外の理由で為されない。・・だが、遊び自体はすばらしく正当で、敬虔な仕事だ。なぜ敬虔なのか?それは役に立たないからだ。遊びは本来、役に立たないものなのだ。・・本当の遊びとは他のどんな理由のためにもなされないものである。・・私達が神を礼拝するのに、礼拝以外の隠れた目的はない。家族や友達と楽しく過ごすのは、それ自体が楽しいからだ。夕日を見つめるのは、それが何かの別の目標達成に役立つからではない。私達が遊ぶのも、それが本当の遊びなら、ただひたすら遊びたいからなのだ。ここで、礼拝、信仰、休息、遊びが互いに関連しているのがわかるだろう。・・・遊びは礼拝に似ている。旧約聖書の箴言は、擬人化された知恵について語っている。その知恵は、主の御前に遊んでいた。」

毎日、毎日、私はそこで遊んでいた。
神の御顔の前で、いつも遊び回っていた。
神の造られた地上でくまなく遊び、
すべての人々と楽しんだ
          (箴言8:30−31 カル・スイアフェルト訳)

ユーモラスなマンボウやカメレオンを見る時、神の創造の遊び心を見る。機能だけならこの世界を全部灰色にしても良かった。しかし、この春、美しい桜のピンク色を私達は楽しんでいる。

福音派には敬遠されていたラディカル神学の中に「遊びの神学」というのがある。神は何か不足があって「必要」から世界を造ったのではない。そうであれば神は自己充足の神ではなくなる。「必要」からでなく、世界を造ったのであれば、それは「遊び」ではないかと。不敬虔に聞こえるが一理ある。一番、大事なものはお金で買えない。命はセックスという究極の「遊び」から生まれるではないか。人間にとって一番大事なのは神を「礼拝」することではないか?礼拝は産業とは対極にあるもので、むしろ「遊び」に近い。恋人達のデートに近い。「遊び」はまた、「セレブレーション」と言ってもいい。遊びは祭り(セレブレーション)と親密性がある。プロテスタントにはカトリックに比べ「祭り」や「儀式」が少ない。「世俗都市」で60年代一躍有名になったラディカル神学者のハービー・コックスは「愚か者の饗宴」(1969)でプロテスタントにはもっと「祭り」が必要であると提唱していた。

走り続けていてはいけない。時々、立ち止まって過去を記憶し、瞑想し、祝福する「祭り」が必要なのだ。それが現在を確認し、前に進ませる力となる。イスラエルの人々は、一度進行を止め、「神がここまで助けてくださった」として石を積み上げ記憶した。一週間に一日、安息日がある。リズムがある。それを神は計画された。車のハンドルには「遊び」がある。だからスムースに車をコントロールできる。遊びやしなやかさが無いものはパキンと折れる。だから「遊び」は「仕事」同様、神からの崇高な召しであり、同等に大事なものだ。

また、遊びはセレブレーションであるがゆえ、「笑い」でもある。人生を思い詰めないために言う「ジョーク」は大事な言葉の「遊び」なのだ。仕事が大変な時こそジョークを言う。人を笑わせるコメディアンは、知らずして神の業を為しているのだろう。腹を抱えるほどに笑わせるのは神聖な奉仕だ。その側面がないと人生がパキンと折れる。まじめな人ほど鬱になる。イエスはユーモアを大事にされた。神は冗談がわからない方ではない。
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asktmc@gmail.com (栗原)