2011年3月6日日曜日

「ペイガン・クリスチャニティ」 その2



 前回に引き続き、フランク・バイオラの「異教的なキリスト教?」から
その主張の幾つかを挙げてみよう。


1)新約教会には一人の牧師が同じ会衆に毎週、何十年も説教してる
例はない。3世紀までは一人の牧師という制度は広まって
いなかった。新約教会では、すべての人が預言していた
(Iコリ14)のであり、牧師を通してだけ神は語りかける
のではない。神は教会が機能するように、教会に賜物を
与えている。牧師(実は牧者=羊飼い)はケアテイカー、
執事はサービスマン、で教会には「複数」いる役割。長老は権威者、
ポジションではなく、年配の成熟したクリスチャン。

(コメント)
確かに、「あの大教会の執事様ですか。」といった会話は新約教会に
はない。ポジションではないからだ。また、給料もらう
フルタイムの職業牧師もいなかった。4Cにコンスタンティン
によって給料をもらう教職者制度ができた。

2)教会には階級制度はなく、命令系統もない。教会は家族であり、
生命体である。ヘッドはキリストのみ。教会の階級制度は4C
にこれもコンスタンティンによって持ち込まれた。

3)聖餐式は基本的に愛餐会であり、フルミールだった。特別の
儀式ではない。そのムードは罪赦された祝宴のムードで
鎮痛な堅苦しいものではなかった。

4)礼拝の順番は16Cのグレゴリアン ミサ(カトリック)を
踏襲している。ルター、カルビンがリバイスしたが、牧師の
説教を中心とする基本は変わっていない。新約教会には明確
な礼拝オーダーがない。メッセージ前の長い牧師の祈りは
17Cのピューリタンが始めた。説教スタイルはもとを正せば、
ギリシアの哲学者からの借り物。その後、クリソストムや
アウグスチヌスがはやらせ、キリスト教信仰の中心的なもの
にした。
注)バイオラはパウロやテモテは使徒であり、ローカルチャーチの
  牧師とは区別している。使徒は巡回使徒であり、基本的には
  一地域、一教会に定着していない。

5)マラキ書の10分の1はイスラエル国家の税金であり、祭りと
貧しいものへの配給のためであった。(つまり社会福祉税のよう
なもの)レビ人(祭司階級)は10分の1から生活費を支給され
たが、今は万人祭司の時代で、(キリストは至聖所の幕を破った)
大祭司キリストと、すべての信徒(祭司)がいるのみ。レビ人の
サポートは現在の牧師のサポートと解釈できない。ただし、巡回
使徒や、巡回伝道者をローカルチャーチが支えていた事実はある。
また、他教会の必要のため、折々、必要に応じてのささげものが
あった。

コメント)新約では、ささげものの強調点は10分の1でなく、
私達自身をささげるという霊的礼拝行為(ローマ12:2)である。
マタイ23:23もイエスの十字架と復活以前の旧約のパラダイムの
中でのご発言で、イエスご自身、ユダヤ教のラビとして生きて
おられた。エルサレム会議での異邦人への取り扱いでは10分の
一献金の義務はなかったように思われる。(使徒15:28−29)


(コメント)
長い間のキリスト教の歴史の中で、新約の律法、プロテスタント教会の
律法が生まれてきた。屋根の尖ったゴシック建築の教会堂、固定された
長椅子。司会者用のさらに上段にある、牧師説教用の荘厳な説教台。
決められた祝祷文、正装しての礼拝出席などなど。新約教会には無かった
ものが開発されていった。歴史的には、はじめの300年は、教会堂が
なかった。アメリカでは献金の80%(50億ドル)は会堂に使われている
ことを考えると、会堂費と牧師給がなければ、何と多くの献金を宣教師や
貧しい人にささげられるか?これは考えてみるに値するのではないだろうか。

私の印象としては、新約ではローカルチャーチは極めてシンプル。
まさにエクレシア(集まり)であり、制度組織というよりは、キリストの体
(生命体)。新約教会は「お互いに」教会。今日、確かに牧師中心の頭
でっかちな教会になっているのではないか。「牧者」という役割は聖書に
ある。しかし、それはいろいろある役割の中の1つである。(エペ4:11)
そして、使徒と牧師は区別されている。むしろ、牧師は教師と1括りに
されている。牧師(牧者)は組織のヘッドというより、教える賜物のある、
また、魂をケアする(神学校の資格ではなく、すでにしている人)成熟した
長老の一人である。ポジションではない。1コリ12:28には教える人
とはあっても、牧師という言葉すら出ていない。CEO牧師は聖書には無い
概念なのだ。教会は、すべての人が参加する(つまりお客さんがいない)
家族としての、体としての教会になっているだろうか?

ローカルチャーチはシンプルだが、社会にニーズのために率先して様々
なミニストリー(やもめ支援、貧困者支援、病人の癒しなど)が神の導きと、
信徒の賜物によって行われていた。シンプルな教会(交わり)と沢山の
ミニストリー、そんなイメージだ。「壁なき教会」という表現を最近聞くが、
新約の教会はそうやって社会の癒し、回復の役を担っていた。今日、信徒を
神の国のため励まし整え、解き放つことが必要なのではないだろうか。
そのために牧師への1点集中ではなく、キリストのヘッドシップをシリアス
に受け止め、教会メンバー全員が、それぞれのミニストリーを展開することを
励まし、神の国のために共に仕えるという広い視野が必要だろう。
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