2016年3月10日木曜日

「キリストさん」と呼ばれて

何も変わらないはずがない

3:11東日本大震災から5年になります。ある男の子が作文で「あれほどのことがあったのだから、何も変わらないはずがない。」と書いたそうです。大震災を通して神は多くことを教会に教えてくださっています。いままでの宣教でいいのか?いままでの教会形成でいいのか?東北の牧師たちは、もう一度、地元コミュニティの中にある教会ということを考えさせられています。東京基督教大学特任教授の倉沢正則氏は「自分たちの土俵に人を呼ぶのではなく、地域の人々の土俵で考え、なすべきことを行うところへ押し出された。」と表現しています。


 日本の教会が低迷する中、東北の災害支援にかかわった人々の間に何か共通の思いが出てきているように感じます。そして、それが今後の宣教において重要な鍵となるような気がしています。今回、第4回東日本大震災国際神学シンポジウムに参加して、その思いを強められました。今回のテーマは「キリストさんと呼ばれてーこの時代、この地でキリスト者であること」です。


被災地で長い間支援を続けるクリスチャンは、やがて「キリストさん」と呼ばれるようになったのです。「教会さん」や「お寺さん」はあるけれど、仏教徒を「仏さん」とは呼ばない。「キリストさん」には自分自身も気づいていない大切な意味があるのではないかと、神戸改革派神学校の吉田隆師は感じたのです。

ある時、クリスチャンボランティアが被災者の家を訪問した時のことです。「あんたら何持ってんのか?」と聞かれ、「何ももってません。だけど必要なものがあれば、できる範囲で揃えます。」と答えました。すると「オラなんにもいらねえ。ただあんたら来ると元気になるべ。あんたらキリストさん、しょってっからな」と言われたそうです。キリストの香りがしたのでしょうね。クリスチャンというあだ名はもともとは迫害者からつけられたものですが、どうも東北では「キリストさん」はいい意味で使われているようです。どうしたら、私たちも近隣で「キリストさん」と呼ばれるようになるんでしょうね。



ボランティアたちが被災者の家を掃除してお昼を食べていた時の話です。そこのおばあちゃんが「クリスチャンってのは、こういう顔してるんだ。」と言ったというのです。普段、教会の建物は見ているけれど、クリスチャンに直に触れて話し合うことがなかったんですね。卑近な例になりますが、私たち、丸の内エクレシアは、丸ビルのハンバーガーレストランで毎週、集まっています。それで店員さんとも顔見知りになります。彼らは私たちがクリスチャンで聖書を広げて話し合っているのを見ています。ああ、「これだけでも証しだなあ」と思わされました。





こっちの論理
今となって災害支援に関していろいろ見えてきました。いろいろな角度からの検証がなされています。最近は「災害学入門」(ちくま新書)という本まで出版されました。英語の本ですが、”Toxic Charity”(害ある慈善活動とでも訳すのでしょうか?)という本を知人から紹介されました。押し付けチャリティについて書いてある本です。ブラジルの教会のペンキ塗りに海外からミッション・チームが来ました。しかし、入れ替わり立ち代わりミッションチームが来て、誰も使っていない教会を一夏に6回も塗り直したというのです。アフリカに井戸を掘る開発援助では、結局、現地民が支援団体に頼りきりになってしまったという例。ハイチ地震における復興援助では、支援金で町は復興したけれど、住民の経済力や生活の質は低下してしまったという例。何が現地の人々にとって最善なのか、いろいろ考えさせられますね。

クリスチャンボランティアが東北の被災地の家の掃除を始めようとした時、妻を亡くしたご主人が「線香の一本でもあげていけ!」と怒った声で言ったそうです。もちろん、線香の問題というより、ご主人の気持ちに十分寄り添えなかったということなのでしょう。

被災地で「ここぞ」とばかり伝道して、クリスチャンが仮設で活動するのが禁止され地元の教会に迷惑かけた例も聞いています。つまり、すべてこれは「こちらの論理」(倉沢先生的には「自分たちの土俵」)なのです。自分には達成感はあるのでしょうが、本当に相手の立場にたって、寄り添っている訳ではないのです。しかし、他の宗教やNPOが撤退していく中で地味に支援活動をしつづけているクリスチャンもいます。そして、段々信頼を得てきています。その中で、「キリストさん」と呼ばれることになったことには大きな意味があるのです。


先の吉田師は「サマリヤ人の例え」を引用して、イエス様は倒れている人の視点で見ていたと指摘します。倒れている人にとって、助けてくれる人が「善き人」なのであって、レビ人だろうが、律法学者だろうが、タイトルなんて関係ない訳です。イエスご自身が倒れておられるのだと示されたというのです。私たちも上から目線の支援活動になりがちです。避難所では「心のケア」が嫌煙されたそうです。専門家が来てあれこれ質問され嫌になった人や「精神科に診てもらうほど病気じゃない」と不快に思った人もいます。むしろ、自分自身で、自分の気持ちを「書く」ことで心の整理した人もいたようです。痛みを除くのではなく、温存し、忘れ去るのではなく、記憶することで災害と折り合いをつけていくのだと考える人もいます。



 イエスの顔になること
イエスの弟子となるとはたくさん弟子訓練の本を読み、訓練を受けることだけではありません。聖書の教えが身についていなければなりません。吉田師の言葉を借りれば「イエスの顔」になること。聖書的には愛こそがイエスの弟子としての決定的なアイデンティティであり、弟子であることの「しるし」なのです。しかし、だからこそ御言葉によって練り鍛えられる必要があります。インスタントにはできません。

2006年10月2日、アーミッシュ学校で男性が11名を銃撃、女子生徒5名死亡という痛ましい事件がありました。ところが事件から数時間以内にアーミッシュ共同体の人々は犯人家族に手を差し伸べはじめました。アーミッシュは殺人者に赦しを表明したのです。多くのアーミッシュが犯人の夫人と子供たちを経済的に支えるため特別基金に貢献しました。一般のニュースでは犯人をバッシングして終わりですよね。しかし、フラー神学校のウイルバートRシェンク教授によると、アーミッシュはこのような事態にどのように応答するかを3世紀以上にもわたって練習をあるいは、準備を積み重ねてきたのだと言うのです。それを聞いて腑に落ちました。アーミッシュの霊性は山上の垂訓の中にある「主の祈り」に基礎付けられているのだそうです。アーミッシュの子供たちは5歳になるまでに「主の祈り」をドイツ語と英語で暗唱できるようになるそうです。

フィリップ・ヤンシーの「隠された恵み〜福音は良き知らせになっているのか」によると、アメリカの福音派に対する評判や信頼は下降の一途を辿っているというのです。その理由は、福音派の人たちは「福音」よりは「罪責感」を人々にもたらせている。彼らは、人々を人間としてよりは伝道の対象として見ている。また、「救われている自分」たちと「滅びゆくこの世の人たち」という優越心や裁く心で人に接する。人の話に真撃に耳を傾けず、一方的に話そうとする。結果、魂を遠ざけてしまっていると。これらは皆、間違った福音理解に基づいているのではないかとヤンシー氏は、指摘しています。胸が痛いですね。

そして、その関連で吉田師はマルコ16章の結び、いわゆる宣教命令のところを引用します。「すべての人に福音を」ではなく「すべての造られたものに福音を」という表現に注目します。確かに不思議な表現ですね。神がご自分の似姿に心を込めて造られた存在というニュアンスも見て取れます。吉田師はこれをローマ8章の被造物の回復と関連つけます。被造物も神の子たちの出現を待ち望んでいる。神の子たちとは私たち贖われたクリスチャンのことですね。「神が造られたこの世界に喜びを回復する、元々の輝きを回復する人たちの出現」と考えます。つまり人が福音に生きるようになると結果的に全被造物に恵が及ぶ。すべての造られたものへの福音となるという訳です。


存在による福音
最後に長いのですが、感動したので、吉田師の講演のレジメの中の「存在による福音」の部分を引用します。
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主イエスの愛の模範には、まさに「存在としての福音」とも言うべき側面があった。このこともまた私たちはしばしば忘れがちなのではないかと思います。イエスは敵対者たちから「あいつは大食漢で、大酒飲みだ」と言われました。(マタイ11:19)。どれほど飲んだり食べたりしておられたのかはよく分かりませんけれども、とにかくしょっちゅう食べたり飲んだりしている。独りでではありません。「罪人」たちとです。要するに社会的な弱者、世間の人々との付き合いからはじき出されている人たちです。そういう人たちと付き合うといったら、まずは食べることでしょう。飲むことでしょう。付き合うのですから。付き合わないなら、自分を聖く保とうとするなら、そんなことする必要はありません。けれども、一緒に交わりを持とうとするならどうするのかということをイエスはお示しになったのだと思います。イエスの所には、罪人と呼ばれた徴税人や水商売の女性たちや、その類の人々が大勢集まってきました。いつも高尚な教えをなさって、また見るからに近づき難い後光を放つような(よく聖画などで描かれている)そういう聖人としてのイエス様だったら絶対近づかなかっただろうと思います。別に言えば、人間としての魅力が主イエスにあったからこそ、彼らはこの方に心開いたのだと思うのです。イエスに対する(大食漢で大酒飲みという)批判が書かれております箇所のすぐ後に、有名な「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」という御言葉が語られます。(また11:28)。この御言葉は、ですから決して単なる人集めのための宣伝文句なのではない。そうではなく、事実を語った言葉なのです。本当に主イエスは、疲れた人、重荷を負っている人を招かれた。あるいは自分のほうから出かけて行って、人々の魂の疲れを癒された。重荷を降ろしてあげたのですね。何によってでしょうか?説教によってでしょうか。それもあるかもしれません。イエス様の説教はきっと面白いお話だったと思います。少なくともそのような人々に対してお語りになった説教は聞いているだけで気持ちが軽くなるような楽しい説教だったのではないでしょうか。が、それだけではない。何よりそこに一緒にいて楽しい。嬉しい。このことがあったのでしょう。だからこそ、あの徴税人の頭でありましたザアカイも、イエス様が「ぜひお前の家に泊まりたい」と言ってくださった時には、もう大喜びで自宅に招いて、イエス様に喜んでいただこうと、次から次へと食事をふるまったのでしょう。(ルカ19:1−10)。












(仮設住宅集会室でクリスチャンによるコンサート)



イエス様が一緒にいてくださること自体が「福音」だったからです。何もそこで説教するとか奇跡をするということがなかったとしても、イエス様がおられること自体が喜びだったのです。「福音」というのは、そうではありませんか。喜びでない「福音」などナンセンスです。イエス様がいらっしゃるだけで嬉しいという、それが福音です。まさにイエス・キリストのご生涯そのものが「存在としての福音」であったということ。御言葉によって福音を伝えたというだけではなく、存在そのものが福音であったということ。このことを忘れてはいけないと思います。
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「オラなんにもいらねえ。ただあんたら来ると元気になるべ。あんたらキリストさん、しょってっからな」

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DRCnetのホームページでは、「東日本大震災の経験から学んだこと、今後の指針」と題して、上述の吉田師の論文全文をはじめ、各関係者からの寄稿による、今回の震災の総まとめ的なリポートが掲載されています。ぜひ、一度ご覧ください。

http://drcnet.jp/lessons_from_311_disaster_and_guidelines_for_future/

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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ(TMC)

japantmc@gmail.com (栗原)



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