2022年3月24日木曜日

Kingdomの視野に立つ伝道

 

天と地の全ての「権威」を持つ王なるイエス

「舟の右側」3月号に掲載されたフェイスバイブルチャーチの武田考平牧師の「福音による教会形成」第15回「福音と大宣教命令(3)は大変、興味ふかい記事だった。初頭で、アメリカでも日本でも「大宣教命令」の強調が薄れてきていることを指摘する。それは福音がストレートに語られなくなっている事を意味する。また、新しい視点として、ダニエル7:14との比較で、マタイ28:18−20共々、主権、権威(エクソーシア)が使われ、力(デュナミス)ではないことを指摘している。そして、こう結論付ける。

 

「このように両箇所の言語とテーマが類似するだけではなく、」論理も類するとすれば、マタイの大宣教命令における権威と派遣のロジックは、次のようになる。『イエス・キリストは天と地のすべてに及ぶ権威を有するため、すべての国と人々はイエスに従わなくてはならない。それゆえ、すべての国と人々のところへ出て行って、イエスに従う弟子をつくりなさい。』これに基づくならば、マタイの大宣教命令は、まさに神の御国の拡大を命じるものである。

 

「天においても、地においても一切の権威を持つ」とは、宇宙の主 (The Lord of the universe) ということだ。もっと正確に言うと、天界においては天的存在物(エロヒーム)のトップに立つお方。地上界においては「王の王」。全ての権威の源であり(ローマ13:1)、全ての権威を持つ方なのだ。創造主が全ての権威を所有するのは当然だろう。全宇宙に階級秩序があるとすれば、キリストは、その頂点に座すお方。天においても地においても一切の生き物は、このお方の前にひれ伏すべきなのだ。(黙示録5:13)

 

伝道にも「御国」成就の視野が必要

今まで自分も伝道に出て行く時、神の「力」が背後にあるのだから「大丈夫」と思って出て行くのだと解釈していた。つまり伝道の「力」として理解していたのだ。しかし、「力」より「権威=地位や所有」を表すエクソーシアが使われている。これは当時、使われていた「福音=ユーアンゲリオン」の意味、「王の即位の喜ばしきニュース」とも合致する。千年王国では100%これが成就するが、(黙示録11:15)今から「新しい真の王」への忠誠を誓う人々を呼び起こすため出て行くという事だ。誰かが救われて、個人的に幸せになり、天国に行くのは嬉しいが、伝道には、この御国のパースペクティブ(視点)が必要なのだ。バプテスマのヨハネもイエスも「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と宣教した。(マタイ3:2、4:17)

 

戦争を終わらせるメシア

主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。  

                        (イザヤ2章4節)

 

この聖句は、ニューヨークの国連本部の壁に刻まれている。戦争を終わらせるのは神ご自身。最後に裁きを下すのは神ご自身。その裁きは絶対に公平で正しい。イエスは「地の王たちの支配者」なのだ。全ての民が最終的権威である王なるイエスの下にひれ伏すしか、最終的な解決は無い。それまでは地の王たちの力の支配闘争は終わらない。

 

また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。

                           (黙示録1:5)

 

主がすべての戦争を終わらせた後、この光景が、千年王国にて見られるだろう。

 

エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。

                    (ゼカリア14:16)

 

 

すべての人は罪を犯した

今日のロシアによるウクライナ侵攻を見る時、人の罪を思わざるを得ない。第二次世界大戦が終わった時、学んだのではなかったか?ベトナム戦争の泥沼化の中で、学んだのではなかったか?沢山の反戦歌が歌われ、若者の間に平和運動が起こった。二度と戦争はしないと。残念ながら人類は歴史から学んでいない。21世紀になってもミャンマーで、香港で、他の国々で、力による弾圧や侵攻が起こっている。今はロシアが「悪者」、欧米が「善人」となっているが、歴史を見るとそう簡単では無い。英国も、インドを植民地化し、アヘンで中国を支配した。アメリカも、日本に原発を2発投下し、東京大空襲で無差別攻撃を行ない民間人10万人が犠牲となった。また、ありもしない大量破壊兵器を大義名分にイラク戦争を起こした。ドイツはユダヤ人大虐殺を行った。時代によっては今の「善人」は「悪人」でもあった。つまり、人は皆、罪人なのだ。一貫して正しい国も、正しい人もいない。

 

「全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず・・」

                     (ローマ3:23)

 

 

福音には「神の義」が啓示されている

福音には「神の義」が啓示されている。(ローマ1:17)そこから始めないと福音の本当の意味が分からない。罪に対して神の怒りが燃え上がる。神に従わないイスラエルに対しての神の態度はこうだった。

 

それで主の怒りがこの地に向かって燃え上がり、この書に記されたすべてののろいが、この地にもたらされたのだ。主は怒り憤り激怒をもって彼らをこの地から根こそぎにし、ほかの地に彼らを投げ捨てられた。今日のとおりに。   

                    (申命記29:26−28)

 

今日、誰も「神の義=神のスタンダード」の前に義とはされない。(ローマ3:10)そこには達しない。皆、脱線している。軌道を逸脱している。それが罪(的外れ)の意味だ。「人の義」は「神の義」を達成しない。イエスを信じることによってのみ、「神の義」が人に付与される。(ローマ3:22)人類は神の怒りの下にある旧人類(罪人)か、福音を信じて神の義が付与された新人類(聖徒)かに2分される。民族、文化、人種により分割され、抗争するのでは無い。ロシアにもウクライナにも、主イエスを信じるクリスチャンたちがいる。彼らは1つ神の家族であり、兄弟姉妹なのだ

 

なぜ、神は悪を止めない?

なぜ、神は悪を止めない? なぜ今、裁きを行わない? そう質問する人がいるだろう。今、裁きを行えば、質問している「あなた」も裁かれるからだ。義人はいない、一人もいないのだ。神の義に達する人はいない。あなたも罪の結果である滅びを受け取ることになる。(ローマ6:23)人類歴史が始まって以来、妬み、殺人、盗み、賄賂、不倫、姦淫、戦争、虐待・・・が後を断たない。人類は歴史から学ばない。私が小学校の時に、政治家の賄賂がニュースになっていた。今日も目の当たりにしている。小学校の時、ベトナム戦争があった。今日も戦争を目の当たりにしている。そして、将来も続くのだろう。人が神を離れ、自分の悟り、自分の知恵に頼る限り。人に傲慢と自己中心という罪がある限り悲惨な出来事は続く。神はむしろ、一人でも悔い改めることを願い、裁きの日を延ばしておられるのだ。

 

主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

                      (第二ペテロ3:9)

 

また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。

                     (IIペテロ3:15)

 

福音は、単なる道徳や知識ではなく、救いを得させる神の「力」。人生を変革する「力」。福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませる。(ローマ1:17)「人の義」=宗教・哲学・修行では到達できない「神の義」が信仰によって、付与される。(ローマ3:24、3:28)

 

そして、福音のスコープは個人の救い(義認=霊の救い・聖化=魂の救い・栄化=体の救い)に留まらず、被造世界全体の「癒し」と「回復」である。人類は産みの苦しみの時期を通るが(ローマ8:22)、最終的には王なるキリストが再臨し、悪を滅ぼし、地を回復し、自らが王として、この地を治める千年王国が実現する。(黙示録20:4)さらに白い御座の裁きを経て、新天新地を創出される。(黙示録21:1)それゆえ、福音を恥とせず、宣べ伝え続けるのだ。

 

私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。 (ローマ1:16)

 

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執筆者:栗原一芳

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