2022年10月6日木曜日

聖書の翻訳が与える誤解


聖書の翻訳の問題

聖書の翻訳に携わっておられる方は、本当にご苦労されていると思います。簡単な事ではありません。こうして今、個人が日本語で聖書を手に取って読めることは何と幸いな事でしょう。ただ、どうしても翻訳には翻訳者の神学が反映されしまうことは否めません。例えば、ローマ書12章、「この世と調子を合わせてはいけません・・・」という箇所です。後半、新改訳聖書第3版では、こうなっています。

 

「・・・心の一新によって自分を変えなさい」

 

とあり、自分の努力で自分を変えなければならないイメージです。第3版の対訳聖書のNKJVでは ”be transformed” となっており、日本語との差異に違和感を感じていました。ところが2017年版では、

 

「むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」

 

・・・と受動態に変更されており、自分を変えてくださる主体は神になっているので、安心できます。このように信仰生活にも大きく響くので聖書が言っている正確な真意を伝えることは極めて重要と言えるでしょう。それでいくつか、気になっている言葉を取り上げてみたいと思います。

 

教会(エクレシア)

このブログでも何度も取り上げてきました。エクレシアは一般的には「ある目的のために呼び集められた人々」という意味で、「議会」などにも使われていました。大事なことは集められた「人々」なのであり、「建物」「組織」に言及されているところは無いのです。聖書的には「神が呼び出された人々の群れ」であり、地上の制度、宗教法人としての教会組織とは無縁です。「教会はキリストの花嫁」と言う時に、教会は会堂を指しているのではないことは明らかです。キリストが愛しているのは、信者の事です。しかし、多くの日本人は「教会」と聞いた時、まず、「会堂」、「日曜礼拝」を思い浮かべるでしょう。パウロが以下のように教会(エクレシア)を定義しています。

 

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。  (エペソ1:23)

 

第一に教会は「キリストのからだ」です。組織というより、生命体であり、オーガニックなのです。わざわざオーガニックチャーチという必要もなく、もともと教会はオーガニックなのです。さらに「すべてのものを満たす方」、キリストが満ちておられるところ=キリストの充満するところと定義しています。しかし、クリスチャンであっても「教会とは?」との質問に「キリストの充満」と答える人がどのくらいいるでしょう?言葉というものは以前のイメージを背負ってしまっています。ですから、教会(教える会)を辞めて、「エクレシア」を使ったほうが、聖書的の本来の意味を伝えやすいのではないでしょうか?

 

罪(ハマルティア)

伝道する時、罪の説明が面倒ですね。「実は、聖書で言っている罪というのは銀行強盗や殺人の意味ではなく、もともとの意味は『的外れ』という意味なんですよ。創造主なる神を離れて生きることは『的外れ』な生き方なんですよ。」と。

それなら、初めから「罪」を「的外れ」、「脱線」、「人生の本来の目的からの逸脱」などと訳してくれると、上記のようなくだくだした説明をしなくて済みます。実際、ギリシア語のハマルティアはアーチェリーにも使われていた「的外れ」という言葉です。ついでに英語だと単数、複数の区別がつきますが、日本語は皆同じ「罪」となってしまいます。Sin sins(個々の罪)とは意味が違うのです。その辺も何とかなりませんかね。

 

悔い改める(メタノエオー)

本来、「方向転換」と言う意味で中立的な言葉です。つまり、「悪」から「善」に方向転換しても、「善」から「悪」に方向転換しても「メタノエオー」なのです。しかし、これを「悔い改め」と訳すと、どうしても「罪」を悔い改めるというイメージになるのです。つまり、罪を後悔して、「もうしません。もうしませんから、赦してください」と自分の努力や修行で罪を止めることとなってしまいます。方向転換しない限り罪の赦しはないのです。太陽に背を向けて歩きながら「暗い、暗い」言っていた人が太陽の方に向いて明るさを実感するのはメタノエオーです。キリストは単なる「優れた教師」と思っていた人が聖書を読み「キリストは神の子だ」と「思い直す」なら、それはメタノエオーです。同じように、自分の罪にいつまでも目を向けるのではなく、そのために十字架で死んでくださり、過去、現在、未来の罪を赦してくださったお方に目を向けることはメタノエオーです。ちなみに、いくら罪を悔いて、涙を流しても、キリストを見上げないなら罪の赦しは無いのです。メタノエオーしないからです。

従って、「悔い改め」より、「思い直し」の方が原意に近いです。

 

御国(バシレイア)

御国も分かりにくいですね。「御国」は、現代使わない言葉なので、一般の人には意味不明です。それで、御国=天国というイメージになってしまいます。以前のブログで書きましたが、マタイ13章で展開されている「天の御国」は「天国」の話ではなく、現在の地上の話です。神が支配しているところが御国です。現在ではエクレシアも御国と言えます。

 

英語ではKingdomで分かりやすいです。Kingという言葉が入っているので分かりやすいのです。ギリシア語のバシレイアは「王国」という意味です。王国には「王」がいるのです。王が治める国なのです。政治的な言葉です。御国だとそのニュアンスが薄れます。「神の国は近づいた」は「神の支配が近づいた」あるいは、「神の王国が近づいた」の方がピンときます。ともあれ、もっと「王が治める国」とういイメージが欲しいです。若い人には「キングダム」の方がストレートで、分かり易いかもです。

 

 

もう1つ。翻訳ではないですが、よくクリスチャンが使う「牧師先生」は頂けません。「師」と「先生」とダブルになっており、日本語としてもヘンなのです。エペソ4:11の「牧師」は、新改訳2017年版の欄外には別訳として「牧者」となっています。原語は文字通り羊を飼う「羊飼い=牧者」なのです。敬意を持って接することは良いことですが、何も「牧師先生」とまで持ち上げなくてもいいと思います。また、「牧師先生」に対する「平信徒」という表現もいかがなものでしょうか。あまり聖書的ではないですね。エクレシアは基本的に「兄弟、姉妹」の集まりです。

 

牧師を「牧仕」、礼拝を「霊拝」(ヨハネ4:24)と訳す人もいて、「なるほどな」と思いました。この方が原意に近いのではないでしょうか?

 

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執筆者:栗原一芳

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