2023年10月5日木曜日

神のイメチェン?

 神のイメチェン?

旧約の神は、あのシナイ山の怖い神のイメージ。新約の神は放蕩息子の寛大で優しい父のイメージ。神はイメチェンしたの?と思われるかもしれませんが。アルフであり、オメガである神はもちろん同じです。新約では確かに神の愛が強調されてはいますが、旧約で強調されている「神の義」と「聖」は無くなった訳ではありません。神は「愛」であると共に、「義」であり、「聖」であるお方です。神をアバ父と呼び、親しく近づけるようになったのは、ただただ、キリストの十字架の贖いの故です。そのことを忘れてはなりません。新約にもこのような厳しい表現があります。

 

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。 (ガラテヤ6:7)

 

異邦人たちは、あなたがたが一緒に、度を越した同じ放蕩に走らないので不審に思い、中傷しますが、彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。  ペテロ4:4−5)

 

私たちの神は焼き尽くす火なのです。 (ヘブル12:29)

 

キリストの十字架の故であると言うことは、キリストへの信仰なしに、この特権は無いと言うことです。従って「万人救済主義」(誰もが神の子であり、どの宗教の人も自動的に、すべての人は救われる)はここからは出てきません。

 

主の日〜神の怒りの日

旧約には「主の日」と言う表現が出てきます。ゼパニヤ1:14−15には、その説明が出てきます。

 

主の大いなる日は近い。それは近く、すぐにも来る。主の日に声がする。勇士の悲痛な叫び声が。その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と暗闇の日、

 

それは「闇と暗黒の日」、神の「激しい怒りの日」なのです。1つは、偶像に走ったイスラエルの民への裁き。もう一つは「神の民」をそしった異邦の民への裁きです。神は異邦人を用いて、イスラエルを罰するが、結局、それらの異邦人の国々をも裁く。そして、これは終末に現れる患難時代にも起こることなのです。(黙示15:1)それはヤコブの苦しみの時です。イスラエルの民が苦しみを通して洗練され、苦しみを通って霊の目が開かれる時であります。と同時に、反キリスト勢力への裁きの時でもあります。主が世界を裁かれるときは、反キリスト勢力にとっては「恐ろしい日」、神の民にとっては清算がつく「救いの日」となるのです。(黙示6:10)

 

神々への裁き

世界には諸宗教があり、それらはそれぞれの風土、文化の中で生まれたものであり、優劣はないとする「宗教多元主義」がまかり通っています。こうなると「キリストだけが救い」と言うメッセージを持った宣教はやりにくくなります。それで「キリストだけ」を引っ込めるようになります。終末時には多くの教会もこれを支持するようになるでしょう。しかし、これは聖書の主張とは反するのです。聖書は真の神からの堕落の結果として諸宗教(偶像礼拝)を捉えています。(ローマ1:21以下)これについては、このブログ記事「ニムロデと諸宗教」でも、すでに解説しました。聖書はこの点、非常に明確なのです。

 

主への恐れが彼らに下る。主が地のすべての神々を消し去られるからだ。人々はそれぞれ、自分のところで主を礼拝する。異国のすべての島々も。 (ゼパニヤ2:11)

 

全地は、わたしのねたみの火で焼き尽くされる。そのとき、わたしは諸国の民の唇を変えて清くする。彼らはみな、主の御名を呼び求め、一つになって主に仕える。  (ゼパニヤ3:8−9)

 

創世記は「はじめに神が天と地を創造した」で始まっているのであり、11章までは全人類の話であって、イスラエル宗教の話でさえ無いのです。そして、聖書の結論の書である黙示録では、神は「万物の支配者」(黙示11:17)と表現されています。諸宗教の1つではないことを強調しています。御使が全世界に福音を宣言するときも「天と地と海と水の源を創造した方を拝め」と、あえてキリストではなく、創造主にフォーカスしているのです。創造主に始まり、創造主で終わるからです。「諸宗教、みんなで仲良く」の思想は聖書にはないのです。

 

主への恐れが彼らに下る。主が地のすべての神々を消し去られるからだ。人々はそれぞれ、自分のところで主を礼拝する。異国のすべての島々も。

                         (ゼパニヤ2:11)

 

==========================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

 

0 件のコメント: