この世界で働くということ(2)
神は創造のわざを行われた時、6日働いて、7日目に休まれました。(創世記2:2)実際、神は今に至るまで働いておられます。(ヨハネ5:17)イエス様も大工でした。その神のかたちに造られた人間には「働くこと」がDNAとして組み込まれているのです。働くことは人間の生活の根幹を成す事を見てきました。女の子は幼稚園の時からおママごとをやり、模擬的に家事をこなしています。男の子はミニ消防車を動かし模擬的に消火活動をやっていますね。特に男性は会社を辞めると生きる張りをなくしてしまうことが多いようです。
仕事は本来祝福
神は人間の創造とともに「仕事」を用意されました。「仕事」は罪の入る前に与えられました。そしてそれは本来、祝福であったのです。
神はアダムにエデンの園を耕させ、守らせなさいました。(創世記2:15)これに関して「主にあって働くということ」(いのちのことば社)の中で、こう説明されています。
「耕すとは作物の成長を促すことです。ですから神が創造された世界を治め、耕すという人間の使命は、世界の全てのものに神が意図されていたそれぞれの本質を実現させ、しかも全体がお互いに侵害し合わずに、調和のとれた秩序を保ち、しかもその全てが生き生きと成長・発展するようにすること、つまり神の御心に沿って管理することなのです。支配とは本来、神に属することですし、いのちを成長させるのも神のみが為し得ることです。ですから、世界を管理するということは本来、神のなさることを代わってさせていただくという栄光に満ちた仕事です。」(p13-14)
神は完成された世界に、すなわち人間が何も仕事しなくていい環境に人間を置かれたのではありません。神はご自身の仕事を人間と一緒にすることを選ばれたのです。ちょうど、日曜大工で犬小屋を子供と一緒に作っているお父さんのように。そこにはお父さんとの会話があるでしょう。釘をまっすぐに打てなくて失敗の中で学ぶこともあるでしょう。何よりも犬小屋が完成した時の達成感をお父さんは子供と分かち合いたいのです。
仕事は人間の創造の一部に組み込まれています。ですから天国で雲の上で毎日ハープを聞いているのは似合わないのです。千年王国にも、新天新地にも祝福された「仕事」があるのです。それゆえ私たちが死んでからどうなるか無知であってはなりません。NTライトも「天的」であることは「非物質的」ということではないと強調しています。またティム・ケラー師も「この世界で働くということ」の中でこう書いています。
「事実、天地創造の教義は受肉や復活の教義と合致しており、キリスト教がいかに強固な『物質主義者』であるかということがわかります。クリスチャンにとって、最終的に与えられる天国という未来も、物質的なものです。」
でも今、仕事は呪い?
しかし、同時に聖書は罪ゆえに仕事が「苦役」になってしまったことも述べています。(創世記3:17−19)罪ゆえに病気、加齢、自然災害、死が入ってきてしまいました。人間生活のあらゆる面に罪がもたらす災いの影響が現れるようになりました。仕事も例外ではありません。仕事は「虚しいもの」「必要悪」と感じられるようになりました。エデンの園にあった仕事場の調和(シャローム)は崩され、仕事場には恐れ、敵対心、妬み、時には殺意さえ生まれる環境になってしまいました。(伝道者の書4:4)
仕事は本来、他の人に仕えるものであったのに、(アダムが正しく地を治めることで全ての生き物が生き生きと生活できた。)自己価値を高めようする手段になってしまいました。サタンにそそのかされた人にとっては、地位、名誉、財産、この世の栄華を手に入れることが最終目標となってしまったのです。(マタイ4:8)
バベルの塔を作った権力者ニムロデがいい例です。自己の力、権力を誇り、「名をあげよう」としたのです。自分の功績によって自分の価値、アイデンティティを作り上げようとしたのです。今日でも多くの職場で人々がそれを追い求めています。しかし、これは「的外れ=罪」なのです。神を度外視して自分の判断で突き進む、知恵の実を食べた人間の結果なのです。それは的外れなので、真のゴールに到達しないからです。それで人は十分な富があっても「もっともっと」と追及してしまうのです。いつまでたっても満足できず、安らげないのです。あるいは、「お金さえあれば・・」と偽りの平安を得た気分になります。しかし、それが愚かであることはルカ12:16〜20の金持ちの例えで明らかです。神の前に富まない者は空しいのです。
クリスチャンは神に100%愛され、受け入れられています。神の子供というアイデンティティを持っています。自分を仕事で自己証明する必要はないのです。
神は7日目に休まれた〜仕事以外にも価値を見出す
「第7日目になさっていたすべてのわざを休まれた。」(創世記2:2)「その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」(創世記2:3)この短い文章の中に繰り返し神が仕事を休まれたことが記されていますね。もちろん、神は疲れることのない方ですが、我々人間にモデルを示したと言えます。仕事は大事だし、人間の根幹をなすものではありますが、仕事だけが大事なのではない。「休まれた」というところに仕事以外にもう一つの価値があることを示しているのです。まずは文字通り、体を休めること、家族や友人との時間を持つこと、そして、ゆっくり自分を見つめたり、神を礼拝したりすること。のべつ幕無しに働くのは神の御心ではありません。頭が仕事で埋め尽くされていては煮詰まってしまい、最後には燃え尽きてしまいます。その時、それは偶像となってしまいます。神第一という優先順位を定めることが大事です。仕事と休息のバランス。人間は仕事をし、休み、休んで、仕事をする。そういうリズムを神は定められたのです。
1.仕事の目的が自己実現になってませんか?
私たちは神の栄光のため生きています。聖書的な仕事観は他の人に仕えることです。
2.仕事で自分のアイデンティティを得、自己証明をしようとしていませんか?
仕事の成功に関わらず、クリスチャンは100%神に赦され、100%神に受け入れられています。キリストにあって神の子供です。(ヨハネ1:12)
3.地位、名誉、財産、を得ること、自分の会社の名を上げることが偶像になっていませんか?
神の座に神以外のものを置くことは偶像礼拝です。(出エジプト20:3)(マタイ6:33)
参考本
「この世界で働くということ」仕事を通して神と人に使える。
ティモシー・ケラー著 いのちのことば社
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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
japantmc@gmail.com(栗原)
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