2019年7月29日月曜日

この世界で働くということ(1)

この世界で働くということ(1)

キリストを日曜日の枠から外したい!キリストのご臨在を「東京のど真ん中」に、「職場のど真ん中」に持ち来りたい!それでTMCエクレシアは「都心」で、「週日」に「職場近く」で行なっています。特にクリスチャンが同じ職場にいることが少ない日本で、同じ職場環境にいる者同士が支え合い、祈り会える「場=コミュニティ」としてのエクレシアを持っています。


考えてみますと、月曜から金曜まで週の7割、勤労世代の人生の7割以上を「職場」で過ごしている訳です。ある人は仕事を「食うための必要悪」として仕方なく仕事しているかもしれません。しかし、この世界を創造され、人をご自身のかたちに創造された神様から見て、仕事は単に「仕方のないもの=必要悪」なのでしょうか?

はじめに仕事があった。

ティム・ケラー牧師の書いた「この世界で働くということ」(いのちのことば社)を基に、何回かに分けて「信仰と仕事」について考えてみましょう。

まずは創世記。神は6日間働いて、「第7日目になさっていたすべてのわざを休まれた。」(創世記2:2)とあります。6日休んで、1日働いたのではありません。主ご自身、今に至るまで働いておられます。(ヨハネ5:17)神は「働き」の神なのです。神が手を抜けば、この宇宙は一瞬にして消え去ってしまうでしょう。(コロサイ1:17)そして、人はこの神のかたちに造られました。(創1:27)

それで、人間の創造と共に「地を従えよ。」「生き物を支配せよ。」(創1:28)との「仕事」が与えられたのです。そうエデンの園には「仕事」があったのです。しかも、これは人が「罪」を犯す前なのです。罪ゆえに仕事が「呪われる」ハメになりましたが、仕事は本来、「悪」ではなかったのです。

「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」(創2:15)


神は人のためにエデンの園を整え(ここまでは神の働き)、人をそこに置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。(今度はご自分の働きを人に継続させたのです。)「耕す=develop」とは神がエデンの園を完成品として造ったのではなく、人がさらに手を入れて、さらに良きものにする余地があったということです。ここに人間の栄光があるのです。もう一度、1:28に戻ってください。

「神はまた彼らを祝福し、このように仰せられた。・・・地を従えよ。・・・すべての生き物を支配せよ。」

神が人を祝福し、それから仕事を与えたことが分かります。仕事は本来、呪いではなく、祝福だったのです。恐らく、アダムは神と親しく語りながらエデンを耕し、その実りをエンジョイし、1日の働きを終え、達成感を持って喜び、感謝したことでしょう。創世記1章の終わりに神はご自身の創造のわざを見て「それは非常に良かった。」と思われたのです。仕事も含めて。

今回のまとめ
 人間は仕事をするために造られている。
 人間のDNAに仕事が組み込まれている。
 労働は私たちの生活の根幹を成す。
 仕事は生活の糧を得るだけのものではなく、人間がお互いにとって有益な存在となるための1つの方法。
 仕事は、自分がどんな人間であるかを見出す方法の1つ。自分のアイデンティティをなす主な要素である特別な能力や才能は、仕事を通して見つけられる。

「仕事は本来、人が生きるために行うことではなく、人はむしろそれをするために生き
 るのです。」作家 ドロシー・セイヤーズ

“ I don’t make movies to make money. I make money to make movies.”  
 Walt Disney ("Opportunity Screams"より)

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「この世界で働くということ」仕事を通して神と人とに仕える。
ティモシー・ケラー(著)
いのちのことば社


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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)

japantmc@gmail.com(栗原)

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