2023年11月2日木曜日

愛おしき、この地

 

愛おしき、この地

以下、内村鑑三の言葉です。

 

余は今日まで天然を愛して、実はこれを卑しめたのである。物といい、肉といえば卑しきものと思い、これに超越しこれを脱却するのが霊的生命の目的であると思うた。余は、余の愛するこの地この天然と永久に別れて、しかる後に完全なる霊的生命に入るのであると思うた。しかし、これ大いなる誤りである。生命は霊と肉であり、宇宙は天と地とである。余の救わるるは、余の霊と共に肉の救わるることであって、また余の救いは宇宙の完成と共におこなわるるものである。余は肉を離れ地より挙げられて救わるるのではない。新しき朽ちざる体を与えられて、新しき天地に置かれて、救わるるのである。ゆえに余の救いは万物の完成と同時におこなわるるのである。(P.36ー37 「キリスト再臨を信ずるより来たりし余の思想上の変化」(1918年12月「聖書之研究」)

 

実は、自分も同じ思いがあったのです。正直、天国は素晴らしいところと聞かされても、あまり魅力を感じられませんでした。むしろ、この地上で美しい花を見、緑の木々の中を歩くとき、幸せを感じます。この肉体が喜ぶのです。確かに、この世は汚れている部分があります。しかし、それは「部分」なのであって、それでも自然は美しいのです。

 

死んで、肉体と魂が分離し、魂だけが天国に行き、イエスと共に永遠に過ごす。それが一般のクリスチャンの考えではないでしょうか?それなら、当初、神が人を地のちりから肉体を作り、神の息を吹き込んで人間となったという人間は何なのでしょうか?霊的なものが、より崇高であるなら、なぜ神は初めから人間を霊的存在(御使と同様)として造らなかったのでしょうか?

 

この被造物世界は「悪いもの」で、消滅すべきものなのでしょうか?それなら、なぜ、神は創造のワザを終えて、「それは非常に良かった」と言ったのでしょうか?そう、良かったのです。今でも「悪い部分」を取り除けば、非常に良いのです。

 

自分も上記のような一般的な考えをしていて、死んだら天国と漠然と考えていました。しかし、この地上に実現する「キリストの王国」=「千年王国」の事を学ぶに連れ、考えが変わりました。というか、希望に満ち溢れてきたのです。「そうだ、この愛しい地に戻るんだ。それもさらに良き地に」と思った時に、飛び上がるほど嬉しかったのです。

 

「キリスト教」はギリシア哲学の影響を受け、肉体や物質は悪いもの、「この地」は悪いもの、この地を逃れて「天国」という「霊的な場」に行くのだという思想が蔓延していったのです。しかし、これは、新約の記者が警告した「グノーシス主義」という異端と同じ思想です。そして、「この地はどうせ、滅ぶんだから、どうなっても良い」という天国への逃げの姿勢を生んでしまいます。これでは、神の代理者としての「地を治めるクリスチャン」としての責任を放棄していることになります。

 

老いてゆく、だから愛おしい

老いは悪。老いてゆくのは醜くなること。そういう面もありますが、熟した柿の方が美味しいし、葉が散る前の紅葉が一番美しいと言う面もあります。日没前の夕日に照らされた風景は一段と美しいですね。人間も永遠に青春であったらと思う反面、人生を重ね老いてゆく、だから愛おしいという面もあります。人生は中年以降に熟するのです。刻まれたシワには人生の喜怒哀楽を重ねた重厚さを感じます。いつまでもツルンツルンの肌では面白くないのです。ある人が言いました。「肉体があるからこそ、神の栄光を表せる。」なるほど・・・

 

教会の礼拝に行くと、生まれたばかりの赤ちゃんがいる。走り回る子供達がいる。思春期の女の子や男の子がいる。働き盛りの壮年がいる。定年した高齢者もいる。皆が1つになってキリストを賛美している。「これでいいのだ」と思うのです。しっかり、この世の「生」を生き切って、次のステージに移行していきましょう。

 

「霊肉二元論」からの脱却

天国への逃げの思考ではなく、「天の国籍」を持ったまま、この世でしっかり生きる。神の造った肉体を肯定する。聖俗二元論からも脱却する。文化(音楽・芸術など)は単なる救霊の「手段」ではなく、創造主の姿に通られた人間にとって、それ自体に意味があるし、それ自体を楽しんでいい。「我もなく、世もなし、キリストのみ」の世界は霊的に聞こえるけれど、それは聖書的というより、ギリシア哲学的なんじゃないでしょうか?

 

この点、旧約聖書は非常に「地上的」です。地に足がついてます。「天国」だ「地獄」だの話は出てきません。裁きはこの地上で成されます。祝福とは「地を受け継ぎ、子沢山であり、長寿を全うすること」。呪いとは、「地を失い、齢が短くなり、不妊になり、あるいは、惨めな死を遂げること。」非常にシンプルなのです。旧約は神とともに「この地上」を生きた人々の物語なのです。旧約と新約が一貫性ある「神のことば」であるなら、旧約の「地に根を下ろした生き方」にも学ぶべきでしょう。

 

新約も実は上(天)を目指すより、「来るべき世=次の時代」を目指しているのです。(エペソ2:7)「来たるべき世」は霊的なものではなく、この地上に実現する「千年王国」です。最近は多くのクリスチャンが「新天新地」も回復された「この地上」と言う立場を採っています。そして、そこには復活した「肉体」を持って入るのです。内村が言ったように、自分の救いの完成は、万物の贖い・回復・救いの完成と共に起こるのです。霊だけが天に行くのではありません。

 

滅ぶべきは、この世の「悪」、「罪」、「サタンの支配」すなわち、地上にある悪い「部分」なのであって、この被造物世界そのものではないのです。何せ、それは創造時には「良かった」のですから。

 

私の大学時代の聖書研究会の同輩で、最近は「創造の回復」という視点でのメッセージを配信している島先さんという方がいます。最後に彼の言葉を分かち合います。

 

「私たちも、被造世界の中で、被造世界と共に、被造世界に仕えながら、創造主・贖い主・主権者である神を讃えたいと思います。」

 

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創造の回復  島先克臣

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執筆者:栗原一芳

 

 

 

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